と あ る 弟 の 憂 鬱





「ねーね」
「姉貴」
「ねーね!」
「姉貴」
「ねーね!!」
「姉貴」
「ねーね!ね え ね!!」
「しつこいですよ」


無駄に白熱してるところを冷静に宥めると、ねーねを連呼していたその本人は、ムッと頬を膨らませて、


「昔みたいにまたねーね って呼んでよ」
「嫌です」
「なんでよー」


テーブルの下で子供っぽくばたばたと足を揺らす。飲みかけのお茶が入った湯呑みが小刻みに震える。こぼれるんですけど的な。
ていうか、さっきからずっと断り続けてるのにいい加減しつこいですよ。
……っていっても全然聞き入れてくれないどころか、現在進行形で俺にねーね呼びを強制させようとしてるわけで。
――確かに、確かに小さい頃は姉貴のことを『ねーね』と呼んでいた。でも今は、まだ大人ではないと言えど身も心も結構成長してる年齢だ。
考えてもみてほしい。
姉のことを「ねーね」と呼ぶ、十代後半のいい歳した男がどこにいる?
…………いや、世界各国を探し回ったら案外いるのかもしれないけど。俺は嫌だ。
嫌です姉貴。


「えーじゃあおねーちゃんは?」
「大して変わってないと思うんですけど的な」
「じゃあ……姉様は?」
「キャラじゃないです」


なんで方向転換したんですか?


「文句多いよー」
「それは姉貴のほうでしょう」


俺が、はあと大きめに溜息を吐くと、姉貴は「うー……」と唸りながらテーブルの上に突っ伏した。治まりかけてたばたばたがまた再開される。
湯呑みの中のお茶の波がさっきよりも大きくなって……ちょっと、こぼれてるんですけど。
仕方なく立ち上がって台所から台拭きを持ってくると、湯呑みの周りにこぼれているお茶を乾いてる布巾に染み込ませる。
テーブルにだけピンポイントで地震起こすのもうやめてください。


「……」


「香がグレたー」と俯いたまま無茶苦茶なことを言う姉貴。反抗期もこなかった弟に対してそれはないだろうと思いつつ、ソファーに積まれたアルバムに視線を向ける。
今日、そもそもなんで姉貴が昔のようなやり取りを俺に求めているのかというと、大掃除の最中に奥に眠っていたアルバムを見つけたのがきっかけだ。
そこで余計な懐古趣味が目覚めてしまい、現在の状況に至る。
……ああ、ほんと、メンドくさい的な。


「昔は昔。今は今ですよ」
「もう一回!もう一回だけねーねって呼んでー……」


もはや懇願に近い形で頼んでくる。ここまでしつこくないにしろ、この懐古趣味はいつも兄の一人を彷彿とさせる。
弟の成長一つ一つに嬉しそうにするくせに、ある程度の月日が経ったら『あの頃に戻りたい。あの頃のお前は良かった』と、急に昔に思いを馳せたりする。
兄や姉というのは本当によくわからない。『大きくなったね』としみじみ語っていたかと思えば、いきなり今を否定しだす。
……関係ないけどこの前、気まぐれで姉貴を『』と呼び捨てにしたら怒られた。自分は自分でこんな要求をしてくるのに、だ。
もう理不尽だと訴える気もないので、水分を吸った台拭きを洗おうと、台所に行くつもりで姉貴の後ろを通り過ぎようとした――その瞬間。


「……えっと」


ガシ、と服の裾を掴まれた。
そのままテーブルにくっ付いていた姉貴の顔がゆっくりと上げられ、俺と視線が合うやいなや、




「にーに」




上目使いの状態で。いつもより舌足らずな声で。そんな意味不明な一言を向けてきた。


「……」
「……」


姉貴は恐らく反応待ち、俺は俺でそれにどう応えたらいいのかわからず、お互い固まってしまう。
やがて怖ず怖ずと口を開いたのは姉貴で、


「……きた?」
「何がですか」
「こう、グッと」
「きてませんけど」
「えっ…なんで!?にーにだよ!?……あっもしかして香はお兄ちゃん派!?それとも兄さん派!?」
「いや、一体なんの話をしてるんですか的な。ていうかついていけないんですけど」


あと握ってる台拭きが気持ち悪いです。
流しに投げようかとも思ったけど、また片づけてない食器があったから諦めた。
ついでに姉貴の唐突な一言について追及するのもやめた。色々面倒臭い。
服はというと結構強く掴まれていて、動くに動けない上、皺が寄りまくってくしゃくしゃになっている。言うまでもない。


「姉貴、」
「ちょっと待って!この……この感覚が香にも解れば私の気持ちも理解してもらえるはずだから!」
「もういいです解ってますから」
「何が解ったの!?」


萌えをテキトーに解釈された時の菊みたいに眉を吊り上げて、的外れな怒りを俺にぶつけてくる。
足を踏み出してみれば案外すんなりと手の力は緩められた。ああ、やっぱり皺が残ってる。
台所でお茶の匂いが微かにする台拭きを洗って絞ると、ついでに汚れてる食器も洗う。小さいのが二枚だからすぐに終わるだろう。

姉貴はちょくちょく湯呑みに口をつけながら、


「兄上?いや、兄様?お兄たん?」


一人で謎の考察をしていた。
残念ながら俺に妹属性萌えはないんですけど。あと、あえて言うなら姉萌えも。
二次元と三次元は全く違うものだって菊が言ってた気がする的な。……いや、二次元の方にも興味はないけど。
…………ん?じゃあ俺に『ねーね』と呼ばてグッとくる姉貴は、俗にいう弟萌え的な趣味があるのか?


「…………」


……ただの昔懐かしだろう。それ以外の意図はないはずだ。
深く考えれば考えるほど変な気持になってくるので、無理やり思考を切り替える。

この手のかかるねーねと呼んで病は、過去にも数回発症したことがあり、その度に俺が無視を貫き通して放置していた。
発症の元になるのは大体、仲の良いきょうだいを見た時とか思い出話に花が咲いた時とかで、もちろん毎回ではないけれど、特に感傷に浸る時がある。
それがまあ、これなわけで。
今回もしばらくしたら勝手に治ると思われるので、相手はしないつもりだ。
……しないつもりなんだけど。


「……」


育ててもらった身で言うのもなんだが、もしかして兄や姉たちよりも弟や妹の方が苦労することが多いんじゃないだろうか?
小さい頃もお下がりばっかりだし、兄姉特権を発動されたら俺たち年下は言うことを聞くしかないし、大きくなったら大きくなったらでこんなわけの分からない昔話に付き合わされて今の自分を否定されるしで。(もちろん育ててもらったことには感謝はしているし、あっちも俺たちのことを愛してくれてるのは分かってるんだけども)おまけに、こうやって大きくなったら気を使うことも覚えなきゃいけなくなるし。


「……まったく」


蛇口を締めて手を拭きながら。独り言を聞こえないように呟くと、


「あの」


テーブルでちょびちょびとお茶を飲んでいる姉貴に声をかける。


「んー?」


返ってきたのは上の空な返事。視線を俺に寄越しもしない。目を天井に泳がせて、未だに兄の呼び方を考察している。
今度は姉貴に服を掴まれずに後ろを通り過ぎると、部屋の扉の前に立ってドアノブを握る。


「今日の夕飯……」
「ん?」




握ったまま、捻って、




「なにー?」
「今日の夕飯、餃子がいいです…………ねーね」



飛び出した。
相手の返事を待たずに部屋を出て、乱暴に扉を閉めた。早足で階段をのぼると、自室に飛び込んで勢いよくベッドにダイブする。



「……あー」



……何やってるんだ俺。
久しぶりに赤くなる頬と、音を立てる心臓と。
我ながららしくない。
本人の反応なんて、当然確かめる余裕はなかった。
……そもそもちゃんと言えてたか?声小さくなってなかったか?


「……」


振り返れば振り返るほどそんな不安を覚えたけど、それはすぐに杞憂に終わった。
トタトタと階段をのぼってくる聞き慣れた音が、聞こえてきた。





と あ る 弟 の 気 ま ぐ れ


「香もう一回!もう一回言って!」
「嫌です」