いつか来たるその日まで

残り五分と迫った休み時間。さすがにまだ着席して黒板に向かってるような奴はいない。教室内で一つの机の周りに集まって雑談したり、廊下で立ち話してたり、―――ああ、校庭で騒いでる奴らもいるな。こいつらはチャイムが鳴ってもお構いなく自分達の世界に浸ってるような連中だ。所謂サボり魔。……まあ、俺もフランシスやアントーニョと授業をほっとらかして駄弁るのは割とよくあるから、人のこと言える立場じゃねえけど。
もう二年なんだし、そろそろ真面目に勉強に取り組んだほうがいいだろ。
言える立場じゃねえけど。


「そういえば次って、数学だったよね」
「おう」


俺の隣を歩いていたが「憂鬱だなあ」と重い溜息を吐き出した。
俺も数学は嫌いだ。多分、全国の学生の9割はそう嘆くだろう。あんな暗号みたいな問題文、見てるだけで頭が痛くなってくるしな。数学が好きだと言う奴の思考は理解できない。尊敬はするけど。

―――ちなみに今、俺……とは、一年の教室のある一階から、二年の教室が並ぶ二階へと戻ってきたところだ。フランシスとアントーニョの二人はいない。
元々、俺がヴェストに用あって一年の教室まで行ったんだが、『暇だから』とかいう理由でフランシスとアントーニョに加えもついて来た。俺はさっさと用を済ませたが、ついて来ただけの悪友二人がそれぞれマシューとロヴィーノと話しこんじまって、俺はと二人で二年の階に戻ってきた、というわけだ。

は以前として「数学やだなあ数学めんどくさいなあ数学うけたくないなあ……うう……」と俺の隣で唸っている。そんなに嫌ならサボろうぜ!とは言えなかった。一年前の俺だったら躊躇い無く言ってただろうけど―――二年も後半で、あと数ヶ月もしたら三年に進級して『受験』っつーワードに近くなる身で、そんな呑気な提案は出来るわけがなかった。
……あーでもやっぱ嫌だな。サボりてえ。もっと成績に余裕があればな……。


廊下を真っ直ぐ進んで、自分達の教室を目指す。
腹の調子でも悪いかのように唸り続けるに、周囲の視線(主に男のもの)が集まる。
を心配してる―――わけではなさそうだな。
あーだのうーだの言ってるけど、顔色は悪くねえし、そもそも腹自体さすってない。


好意からくる視線に他ならなかった。


……こいつ、見た目はなかなか良いからな。幼なじみできょうだい同然の存在として接してる俺から見ても、それは眼を惹くものだった。
まず、顔。整った輪郭に、小動物を思わせる愛らしい瞳。スラリとした鼻。綺麗なピンク色をした唇。髪からはいつでもシャンプーの良い香りがする。俺が同じものを使っても、ここまで良い匂いはしないと思う。女らしい体躯は男の保護欲と……他の欲も同時にかき立ててしまう魅力がある。制服のミニスカートから覗く足は細く、もっとを食えと説教してやりたいくらいに痩せていた。それでも適度な肉をつけた太股は、色気を漂わせていて、不意に視界に入ってきたら俺でもドキリとしてしまうことがないとはいえない。

『可愛い』と『綺麗』が合わさって程よく混ざり合った結果、こいつが生まれてきたんだと俺は思う。
事実、可愛い幼なじみがいるってだけで自慢の要素の一つになってるし、―――俺とフランシスとアントーニョがそれに釣り合ってるかどうかは置いといて、だ。
まとめ。は誰が見ても『可愛い』と言い切れる容姿をしていた。


「数学……数学……数学って本当に必要なのかな。覚えて将来役に立つ機会なんて……」


まだ言ってたか。
相変わらず数学への嫌味を呪文のようにぼそぼそと呟きながら、はもうじき訪れる数学の時間に、気分を消沈させていたのだった。





***







―――……。
―――…………。
―――分からねえ……。


柄にもなく、机に教科書とノートを広げ、シャーペンで黒板の数式を写す。
書かれてる式と教師の言ってることは、難解な暗号か何かか?
さっぱり分からねえ。
はあれだけ数学を非難してたにも関わらず、当てられるとすらすら答えを口にしていた。……まあ、あいつは努力してるからな。日々コツコツと頑張るタイプだ。
それに比べりゃ、俺はダメすぎる。
チラとアントーニョの方を見やると、教科書を壁にして携帯をいじってやがった。
次にフランシスに目をやると、隠す素振りも見せずに堂々とノートに絵を描いていた。


「……」


なんか、少しでも真面目にやってた俺が馬鹿みたいだ。
ちなみに俺の席は一番後ろの列で、教室全体が見渡せる位置にある。
あいつら二人のせいでやる気を削がれた俺は、ノートも教科書も広げっぱなしの机に突っ伏した。


―――どうせ分からねえし


いつものようにそう悪態をついて、瞼を閉じる。


色んなことでごちゃごちゃになってる頭を空っぽにしようとして―――――ふと、思い出した。
つい数分前の出来事だ。


―――……、一年の教室に行ったときも注目されてたな。
―――やっぱあの外見じゃ目立つか。
―――モテる幼なじみってのも考え物だよな……。
―――自慢できる一方で、寄ってくる男もそれだけ多いっつーことだし。
―――……なんか今日は一波きそうだ。
―――俺の予想違いだといいけど……。
―――……。


そこで考えるのをやめて、睡眠モードに入る。
最後に、『勉強なんてあとでに教えてもらえばいいか』と心の中で呟いて、俺は眠りの世界に意識を預けた。





***







目を覚ますと、数学の授業は終わっていて、昼休みに突入していた。


「まーた居眠りか」
「そんなんやからいっつもテストの点数悪いねんで」


ふざけたことを抜かしながら俺の机にやってきたフランシスとアントーニョに、思わず眉間に皺が寄る。
お前ら自分のこと棚に上げて何言ってんだ。携帯いじって絵描いてた連中がよ。
俺は少しでも真面目にノートをとってたんだぜ。
ここは俺を褒め称えるべきだろう。


「へえ、ギルにしてはまともにやってたんだな」


お前らとは違うんだぞとノートを見せれば、フランシスは感心したように声を上げた。


「お前らも見習え」
「ゆうても五行くらいしか写してへんやん」
「誰のせいでやる気がなくなったと思ってんだよ」


溜息混じりに肩を上下させてやると、一拍ほど置いてアントーニョが、「え、俺らのせいなん!?」とすっとぼけた反応をした。


「たまには真剣にするかーって黒板と向き合ってノート書いてたらよ、お前らが授業そっちのけで遊んでるのが視界に入って、一気にやる気なくした」


突っぱねるようにそう言ってやると、


「でもそれってギルの集中力のなさも原因だよね」
「うっ」
「せやせや。ほんまに真面目にやっとったんなら、俺らなんか気にせんと授業うけられてるはずやで」
「うっ」


的を射てるフランシスとアントーニョの発言に、俺は一時間前のの如く唸った 。
……ああ、悪かった。俺が悪かったよ。
全部お前らのせいにして押し付けてた俺が悪かったよ。
確かに、俺にもっとやる気と強い意志があれば、こいつらなんざ無視して授業に集中できてたはずなんだ。
なのに、"二人がやってないなら俺も"って放り出しちまって―――やっぱ俺はダメな奴だな。


「悪い。悪かった」
「わかればいいよ」
「よかったやん。自分を見直してまた一歩成長できたやん」


ぽんぽんと俺の肩をたたいてくるアントーニョ。フランシスは腕を組んでうんうんと頷いている。
なんてこいつらは常に上から目線なんだろうな。
そこにまた腹が立つが、めんどくせえことになっても嫌だし、今回は見逃してやることにした。
見逃してやることにして、


「……ん?」


今更ながら、本当に今更ながら、いつものメンバーが欠けてることに気づく。


「あれ、は?」


教室のどこを見回しても、の姿はない。
トイレか?とも考えたが、それにしちゃあ一向に戻ってくる気配がない。


「お前、見てなかったの?」
「あ?」
「ギルが起きたときにはもう行っとったな」
「なんのことだよ」
、一年の生徒に呼び出されたんだよ。わざわざ相手がうちの教室にきてさ」
「放送じゃなくて?」
「そう」


……なんか引っ掛かるな。
フランシスが『一年の生徒』っていう言い方をしたってことは、俺らの知り合いではないな、多分。
の友人網は、俺らも大体把握してるし……。
―――――待てよ。


「その……呼びに来た奴って、男?」
「んー……どうだったかな」
「ドアに隠れてよう見えんかったしなあ」


そこ一番大事なところだろ!
沸き出すもどかしさ。同時に、何故だか不安が込み上がってくるのを感じて、俺は勢いよく席を立った。
その時だ。


さんなら、一年の男の子に呼ばれて校舎裏に行ったよ」


淡々と。
隣の席の女子生徒―――すまねえ名前が思い出せねえ。が、一方的に情報提供をしてきた。俺らの話を聞いてたんだろう。コソコソを喋ってたわけでもないし、そりゃ横にいたら聞こえるよな。
名前が思い出せない女子生徒は、俺ら一人一人の目を見て、


「あんたたちがさんとよく絡んでるから教えてあげるけど。あれ、きっと告白よ。…………邪魔しに行くつもり?」


抑揚のない声。無愛想な表情。
こいつはなんだか人を寄せ付けないオーラを放っていて近づきがたかったが―――名前くらいは、憶えてやろうと思った。
こんな形で初会話を交わすことになるとは予想してなかったけど。


「邪魔はしねえ。―――行ってくる。ありがとな」


言うが早いか、呆けた顔をするフランシスとアントーニョ(こいつらも告白だとは思わなかったんだろうな)と一緒に教室を出ると、俺達は校舎裏に向かって走り出した。






と向かい合っていたのは、背が高いとも低いともいえない、華奢な体格をした男だった。
壁に身を潜めて、こっそりと様子を伺う俺達。


「それで……その……一目惚れで……」


男のほうはもじもじと俯きながら、もごもごと言葉を彷徨わせている。
なんだこいつ。
ひょろひょろとしてるのは身体だけじゃねえみたいだ。
つーかこいつ、まさか今までずっとこんな感じなのか?俺達が来るまで?
……まだに想いを伝えてねえってのか。


「……」


さっさと告れ。そしてフられろ。
様子を見守るフランシスとアントーニョも、唾を飲んで告白の一言を待っている。
―――何気にの告白現場に居合わせるのって、初めてなんだよな。
何度か告白されたってことは中学時代から聞いてたが、その度には断ったっていってたし、俺らも特別気にとめることはしてなかった。
けど。
こうやって実際、告白の場を前にすると、俺の脳内は色んな疑問に包まれていく。



―――もし、に好きな奴ができたら?
―――もし、が告白を受け入れたら?
―――俺達との時間はどうなるんだ?
―――いくら幼なじみだっつっても、さすがに恋人ができたら気軽に遊べなくなるだろうし。
―――相手だって、彼女が自分以外の男といるのは楽しくねえだろう。
―――…………そうか。
―――なくなるのか。
―――完全にってわけじゃなくても、なくなるだろうな。一緒に過ごせる時間は。
―――……一緒に過ごせる時間がなくなったら、どうなる?
―――お互いの家に行き来することも、登下校を共にすることも、昼食を四人で囲むことも、
―――勉強を教えてもらうことも、全部。
―――の恋人とやらが、持っていっちまうんだろうな。



「好きです!」



力強い声によって、俺の思考は断ち切られた。
顔を真っ赤にした男が、肩で息をして、真っ直ぐとを見据えている。
茶化すことのできない、真剣な告白そのものだった。


「―――――」


俺は黙って見ていた。
傍にいる悪友二人も、さっきから一度も口を動かしていない。
もしかすると、こいつらも俺と同じことを考えてたのかもしれない。



俺達三人と、想いを告白した男。
四人が、からの返事を待っている。



「――――――――…………ごめんなさい」


静かな空間に響く、控えめな声。
申し訳なさそうに呟いて、は頭を下げた。


「今は誰とも付き合う気がないんです。だから―――……ごめんなさい」


男が目を見開いて口をぱくつかせる一方で、俺は心の中でほっと安堵の息を吐いた。
フランシスとアントーニョも緊張の糸が切れたのか、口元を緩ませている。


「……そ、そうですか」


目線を地面にやって、歯を食いしばる男。
悔しいよな。やるせないよな。泣きたいよな。でも俺はお前に見方するつもりはない。
可愛い幼なじみがお前のものにならなくてよかったと心の底から思ってる。
もしが告白をOKしてたら、俺は待ったをかけて二人の間に割り込んでたところだ。

さっき、俺の脳内を駆け巡った色んな"疑問"。もしもに彼氏ができたら。
考えただけで、変なもやもやした感情が俺の中に渦巻いた。
今までに恋人ができることを、想定していなかったわけじゃない。
いつかは"その日"がくることだって、解ってる。
でも、今日―――さっき、それを初めて深く真剣に受け止めてみて―――

嫌だったんだ。

が俺達から離れていくのが。
十年以上続いてた関係が、急に崩れてしまうのを想像したら、怖かったんだ。



「あの……すみませんでした。お時間をとらせてしまって……」
「う、ううん!いいよ。特に用事もなかったし……」



気まずい雰囲気が残る現場で、今度は男の方が頭を下げた。
……こいつ。
意外にも礼儀っつーもんは持ってたんだな。
「じゃあ、僕はこれで」と、男は去り際にも軽く礼をしてから、その場を走り去って行った。
沈黙が再び訪れ、俺らもそろそろ戻ったほうがよくね?と、フランシスとアントーニョにアイコンタクトでそう伝えると、教室に向かおうと踵を返す―――――その瞬間。


「盗み聞き?」


と、少し意地悪なトーンの声が背中にかかった。
足を止めて振り返ると、そこには一人しかいない。
今しがた告白をされたばかりの、の姿しか。


「いやーちょっとね」
が男に呼び出されてんで?駆けつけんわけないやん!」
「……邪魔はしなかったぜ」
「まったくもー」


子供を緩く窘めるような、威厳のない叱り方。
好奇心で俺達が告白風景を見に来たと思ってる言い方だった。


とてとてと。
が歩み寄ってきて、俺とフランシスとアントーニョの輪に混ざって―――




ああ、これだなって。
いつもの顔ぶれが、いつものように揃う。
それだけで、こんなにも安心感を得ることができる。




「三人とも、お昼まだでしょ?」
「うん」
「おう」
「ああ」
「お弁当、持ってきてないんでしょ?」
「うん」
「おう」
「ああ」
「昼休み残り10分だけど、購買のパンってまだ余ってるのかな」
「……」
「……」
「……」


……やべえ。昼飯のことすっかり忘れてた。
フランシスとアントーニョも、俺と同様しまったという表情を浮かべている。



「しょうがないなあ」



そんな俺達にたいして、はふわりと微笑むと、



「私のお弁当、分けてあげるよ」






一波去った昼下がり。
日常はとりあえず、戻ってきたといっていいだろう。




いつか来たるその日まで

「でさ、俺、これからはに頼らずにちゃんと勉強しようかなーって……」
「! ええ!?ギルベルトどうしたの!?頭打ったの!?」
「……」

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2012.04.14