異様に目を赤くした人間が、こちらを見ているということは気づいていた。
それだけでも訝しく思っていたが、突如として腕から刀を出現させ、に刃先を向けて近づいてきている事に驚かないはずもなく、サングラスの奥で静雄の双眼が見開かれる。
「静雄……?」
は気づいていない。背後から迫りうる凶器と狂気に。
まるで赤いペンキで塗りつぶしたかのように真っ赤な瞳をした少女は、刀を握りながら、今まさにに切りかかろうと迫ってきている。
「――伏せろ!!」
声を張り上げながら、近くにあった標識を引き抜く。戸惑うも、は言われた通り即座に膝を折る。キン、という金属音が頭上で聞こえ、全てが把握できていないは、今、自分の周りで何が起こっているのかさえも解らない。
「……テメェ…」
静雄が睨みをきかせると、「罪歌」は距離をとって、一歩引き下がる。
「なんでその子を守るの?静雄」
「なんでお前はを斬ろうとした?」
「……愛したいからよ、人間を。―――それからその子は、静雄にとって特別な存在」
「……」
「でもいいの。愛してるわ、静雄」
「…俺は女を殴る趣味はねぇけどな、……逃げるなら今のうちだぞ」
聞き覚えのある声。
微妙に噛み合ってない二人の会話に挟まれるは、静雄と対峙する少女の声を聞き、後ろを振り向く。
「……杏里ちゃん……?」
案の定目先には、おかっぱヘアに眼鏡、大きな胸に、それから刀、という特徴を持った見知った人物が立っていた。
「……えッ…」
が名前を読んだ瞬間、鋭い眼光を放っていた杏里の目からは、赤の色がなくなり、刀を握っていた手の力も緩む。
「…知り合いか?」
「うん……」
からの肯定を聞き取った静雄は、それなら殴るわけにはいかねぇな、と、引っこ抜いた標識を元の位置に戻す。一方で、罪歌に乗っ取られていた杏里は自分が今しがたした行動を思い返し、青ざめていくと共に、勢いよく頭を下げた。
「ッ……すみません……!」
深く深く頭を下げ、地面と顔の距離が近くなるのを感じながら。
「本当に……本当にすみません!……ごめんなさい……!!」
何度も謝罪の言葉を口にする杏里を見て、は、何故謝るのかと言いたげに疑問符を浮かべる。静雄の指示に従って伏せていただけのにとっては、どういうやり取りが繰り広げられていたのかが解らず、迷った挙句、静雄に助けを求める視線を送る。それに気づいた静雄は、淡々と事の経緯を語り始める。
「……その子、急にお前に斬りかかったんだよ。持ってる刀で」
「………え?」
「ま、今の態度から見れば、正気じゃなかったみたいだけど」
「それって……罪歌?」
「以外に考えられないな」
「罪歌」
人間を愛する妖刀。心を持ち、人を乗っ取る刀。
罪歌のことを大まかに言うとそんな感じだが、臨也や新羅、そして杏里自身から罪歌という妖刀のことを事細かく聴いていたにとっては、杏里が自分に刀を向けてきた理由を理解するのに、時間はかからなかった。人間を斬って愛する罪歌のことだ。今回はその刃先が自分に向いただけだ、と、結論付けた。静雄も同じく、かつて罪歌と深く関わりをもった者として、そういう意味では二人は、罪歌の数少ない理解者だった。
ひたすら謝り続ける杏里の肩に手を置いて、柔らかい声色で、が杏里を落ち着かせる。
「杏里ちゃん、もういいよ。大丈夫だから」
「…でも……」
「杏里ちゃんの意思でやったことじゃないでしょ?」
「……そう、ですけど……」
「ならそれでいいよ。今回のはただの事故。」
「ですが……」
「がいいって言ってんならもういいだろ。元々お前の所為じゃないんだから。もうこの話は終わりだ」
静雄が半ば強引に話を終わらせる。申し訳なさでずっと俯いたままの杏里を思った、静雄なりの優しさだ。その静雄の気遣いを無駄にしないようにと、も合わせる。
「私も気にしてないから、終わりってことにしよう。……今日はもう帰った方がいいよ。…家で、ゆっくり心を落ち着けて。」
日が落ち、暗くなり始めてる空の下では、町が夜の顔を覗かせている。ちらほらと周りに人も見え始めてきていた。
「……すみません。……ありがとうございます」
「帰るなら、気をつけて帰れ」
「……はい。」
杏里としてはまだ謝り足りなかったが、二人の心遣いに甘えることにして、最後に改めて一礼してから、その場を後にする。
度々振り返ってお辞儀をする杏里を、姿が見えなくなるまで見送ったところで、は歪な形をした標識に目を移す。
「いつも思うんだけど、標識って何円くらいするんだろう」
「さあな。……それより、本当に大丈夫か?」
「うん。……杏里ちゃんも色々あるだろうし……。それに、また何かあっても、静雄が守ってくれるでしょ?」
「……なんだそれ」
「あれ、守ってくれないの?」
「……言われなくても、のことは俺が守ってやるよ」
♂♀
腕に収めた罪歌の愛の囁きは、まるで何事もなかったかのように再開されていた。
―――ついに、恐れていたことが起こってしまった……。
―――私はこれからどうすればいいんだろう……
自分の大事な人たちに、罪歌の刃が向けられることを、考えていなかったわけではない。だけど唐突すぎた今日の"事故"は、杏里の中の不安を増幅させるのには十分で。今回ばかりは、「額縁の中の出来事」として捉えることもできなかった。
「ねぇ……」
「なんであんなことを、したの…?」
「貴方は……私の大事な人たちも、奪う気なんですか……?」
すれ違う人々でさえも、罪歌にとっては愛の対象。この星も、この国も、この場所にも、人間という生き物は溢れかえっている。
何十億人のうちの、たった何人かだけでいい。
大切な人たちだけは、斬らないで。
杏里の訴えを聴き入れたのか、あるいは気まぐれなのか。
妖刀は、杏里の脳髄に直接声を送り込む。
―――貴方は、人を愛せないでしょう?
―――だから私が貴方の分まで愛してあげるの。
―――私は、この世の全人類を愛してる。
―――……貴方の大事な人たちを、私が愛するか、愛さないか。
―――それは……考えておくわ
歌ガカナデルキョウキ