川越街道沿いに聳え、堂々と身を構える高級マンション。150uの面積に5LDKという贅沢な住居スペースの中で日々生活する新羅にとっては、もはや"高級"という言葉で飾られているそれも"普通"へと成り変わってしまっている。二人で住むのには些か、否、十分すぎる広さを誇り、下手すればそこらの一軒家なんかよりずっと立派だ。
思わず足を止めて彼が住むというマンションを食い入るように見上げたは、岸谷新羅という一個人を改めて深く知った。
手当てや傷の処置の仕方が上手く、医療関係に長けている彼は父親がその筋の人間であると聞いたことがあるが、これほどのものとは。高校生の息子と一人の同居人をこんな所に住ませることができるのだから、そのお父さんとやらは相当な人だ。将来は新羅も父の背を追って医者になるんだろうなぁ、と、今まではなかった尊敬の眼差しを送るは、勿論知りうるはずもない。数年後―――誰もの予想通り医療の道へ進んだ新羅は、病院という職場で人々を診る医者ではなく、"闇"という文字が前に付く所謂"闇医者"として裏界に名を広めることを。この時は一人としてそんな彼を想像していなかっただろう。
「凄い広い……これ本当に新羅と"セルティ"さんだけで住んでるの?」
「ああ。そうだよ」
「へぇ……!」
階を目指してエレベーターに乗り、感喜に似た声を上げるを見て、新羅が疑問の目を向けた。
「そんなに凄いかい?」
「普通に考えて凄いよ」
「金持ちの両親が置いてったでっかい一軒家に一人で住んでる君に言われるとどうも実感が湧かない」
「はは、そう思えば私達って似てるね」
「…言われてみれば。家族と別居してるのに広い所に住んでるのは同じだね」
「新羅はさー、お父さんとかお母さんとか居なくて寂しいって思う時ってある?」
「……どうだろう。昔からずっと家族一緒ってわけじゃなかったから、別に寂しいとかいう気持ちはそれ程ないな」
「ふーん……」
「…は?」
「私はね、時々一人が寂しくなる時もあるよ。でも、新羅も勿論臨也や静雄や京平が周りに居てくれるから、毎日ちゃんとやっていけてる」
家では一人だから静かだけど、学校に行けばその分賑やかだし、平気。――――そう続けたの声は、どこか静かなものだった。けども、それに虚しさを感じさせないのは、彼女が毎日それなりに楽しく過ごしているからだろう。
マンションの通路を歩いていると、下の方で、楽しく話しながら喫茶店の前に群がる数名の女子が新羅の目を捉える。達と同じ来神の制服を身に纏った彼女たちも、帰り道を辿る途中での寄り道だろうか。ふざけ合う笑い声と共に、店の中へ消えていった。
よくある女子達のやりとりを視界から外した新羅は、もう目の前に自分の家のドアが見えてきていることを確認して、隣にいるはずのに話しかけようとした、―――――が。
横に並んでいると思われたは、新羅の数歩後ろでいつの間にか足を止めていた。
沈着冷静。 一点を見つめるの視線の先には、はしゃぐ女子高生が入っていった喫茶店。
孤影蕭然。 本来自分が居るべき"集団"の中から一人外れた少女は―――
雲壌懸隔。 ごく一般の日常からかけ離れた非日常を送る少女は―――
斬新奇抜。 今からもまた、新しい存在に出会い、新しい非日常に足を踏み入れようとしている少女は―――
湛然不動。 ただ、静穏にそんな光景を眺めていた。
―――――――そして、新羅の顔からは笑顔が消える。
偶に、自分と同じ女子高生を見る時のは、心ここにあらずな表情をし、まるで虚空を仰いでるように寂しげな顔をする。
ほんの今までセルティに女友達ができるという喜びだけが新羅の思考を支配していたが―――この時この場で、やっと、見落としていた重要なことに気づき、喜びという色が別の感情によって塗り潰された。
灯台下暗し。 一つのことに気を取られていた少年は、漸く身近な少女の心境を知る。
足を削りて履に適う。 罪悪感が、少年の心を縛り付ける。
人のふり見て我がふり直せ。 もしこの少女が"日常"を渇望しているのならば。
鹿を追う猟師は山を見ず。 新たな非日常へ誘おうとしている自分は、自分は―――
いくらが臨也や静雄と日々を過ごして、好きで一緒に居るとしても――――だって一人の女の子だ。
の日常を"非"の付くものに変えてしまった人物の中には、紛れも無く岸谷新羅という人間も存在している。の周りに女子が寄り付かなくなったのは、自分たちの所為なのだ。自身には何らの問題もない。校内で問題児と謳われる二人と、ある意味名前が知れ渡ってる新羅。そんな人達と深く関わりを持つに、普通の人間ならばまず厄介ごとは避けたい、と近づかないことだろう。思い返せば、が同級生の女子と親しく喋っている姿も、もうずっと見ていない。故に、周りの同世代の女の子たちをが羨ましそうに眺めるのも当たり前とも言える。もしかしたら、もしかしたら気づかない所では今の日常を脱却したいと願っていたかもしれない。それを上塗りするように、今度は人間でもない妖精という非現実的な者と親しみを持たせようとした自分に、さらにを深く"日常"から離そうとした自分に、腹が立った。の声も聞かず、強引にその腕を引いてここまで来たことに。
「新羅?」
ギリ、と切歯しそうになったところを、に名前を呼ばれて止めざる得なくなる。気づかぬうちに傍に寄ってきて、不安そうに顔を覗きこんでくるは、先刻まで浮かれ気味で笑顔を絶やさなかった新羅の急な変化に戸惑っていた。
必死で「なんでもないよ」と繰り返すも、逆に変に捉えられたらしく、疑念の心まで向けられる。誤魔化そうとすればするほど言動が怪しくなり、こんな時こそ臨也のように表情を一定に保てたら、なんて思いが頭の中に浮かぶが、新羅は新羅だ。
「…………」
「…………」
「…新羅」
「………はい」
声で威圧してくるに、意図も簡単に新羅は降参の意を見せた。項垂れる新羅の前で吐かれたの溜息は小さいものだったが、辺りが静かでおまけに真正面にいる新羅にとっては聞こえすぎたくらいだ。
様子から、は新羅の考えていたことを察した。
女子達に少し目をやっただけなのに、いつの間にか彼女達が店に入るまでを見届けてしまい足を止めてしまったを、新羅はずっと凝視していたのだ。当の新羅自身は考え事をしていてそれに無自覚だったらしく、目の前で手を振っても名前を呼ぶまで気づかなかった。
新羅は思い倦ねる。
もうここまで来ておいて今更引き返すというのも気が引けるし、かと言って自分から話を切り出すことも、このまま家にあがらせることもできず、沈黙に飲まれる空間で、新羅の言葉を代弁する為にが口を開いた。
その先に映ったもの