「可哀相に」


後ろから抱きつく形で首に腕を回し、女は尚も囁き続ける。


「可哀相に」


悪意やからかいといったものが一切含まれていない、どこまでも哀れみに満ちた言葉。


「私がもっと早くに貴方に出会っていれば」


一方的に喋り続ける女に対し、そんな彼女に背後から密着されている男は、口元さえも緩ませずに沈黙を貫き通している。


「そうすれば、貴方は今のようにはなっていなかったのかもしれない。遅すぎたのよ、何もかも。矯正を行う機会を、取り逃がしてしまった。……ああ、勿論これは、貴方のことを知った上で言っているのよ?」


吐息と共に声を男の耳元で吐き出しながら、女は語る。


「折原臨也25歳。175cm58kg。O型の5月4日生まれ。趣味は人間観察。好きなものはもっぱら人間。嫌いなものは平和島静雄。家族構成は父方の祖父母の折原寅吉さんとナツさん、父の四郎さんと母の響子さん。下に二人の妹がいて、名前は九瑠璃ちゃんに舞流ちゃん。母方のお爺さんとお婆さんは既に亡くなってるのね。両親は揃って貿易商社に勤めていて、長期の海外出張が多い。昔から滅多に家に帰ってこないおかげで、臨也さんとのコミュニケーションを取る時間もなかったんだって?小学生時代は優等生だったのに、中学に入って岸谷新羅って同級生の男の子を刺して補導されたのは、やっぱり親からロクに構ってもらえなかったせいで歪んでしまった結果なのかしら?……寂しかったよね。ああ、この頃にでも出会えていたら、私が貴方を正せていたかもしれないのに。…………いや、御免なさい。この補導事件には深い深い訳があるのよね?奈倉君だっけ、その男子生徒を庇って罪を被ったらしいじゃない、貴方。高校の頃には既に池袋でちょっとした有名人になっちゃってて?その奈倉君と一緒に『アンフィスバエナ』っていう野球賭博グループを作ったんですってね。それでも先生達に目をつけられることもなく、上手く立ち回って今に繋げて来たわけだ。警察に捕まるなんてヘマもせずに。」
「……」
「臨也さん、自分で情報屋情報屋って言ってる割には、表向きの職業はファイナンシャル・プランナーなんだね。私初めて知ったよ」
「……」


女の口から次々と暴露されていく自分の過去と個人情報を聞いて、男―――臨也は、ここで漸く声を上げた。


「情報源は、九十九屋だね?」
「ええ。あの人は凄いわ。私の知らない臨也さんをたくさん知ってた」
「ああ。奴は確かに凄い。俺より能力が上か下かは置いといて、だ。……今君の前にいる人間がどんな人物なのかは、君自身もよく理解しているだろう。―――
「勿論ですよ!あ、ということはもしかして臨也さんも私のこと調べちゃった?さすが!さすが情報屋さん!私のことなんて簡単に調べられて当然ってことだね」


敬語とタメ口が入り混じった奇妙な口調の女―――は、身を乗り出す勢いで臨也の背中に体重をかける。それこそ、子供が大人に飛びついてじゃれるような仕草で。全身を使って臨也の身体を揺さ振ったは、再び声量を下げて、


「私……臨也さんとこんなに喋ったの、初めてです」


頬を桃色に染めながら、乙女チックに呟いたのだった。


「そりゃそうだよ。俺が君を避けてたしね。君は張間美香をも凌ぐストーカーだ。この俺を相手にして、電番からメルアドから全部調べ上げて、俺の所持してるマンション全てに訪れて来て、挙句の果てにはあのチャットルームもにハッキングして侵入してきただろ。そして今日に至っては不法侵入ときた。それで今こんな変な状況になってるわけだけど……。やれやれ、どうやってあのセキュリティを突破したのかねえ。変態が技術を持つとロクでもないことになるのが分かったよ」
「はい!全部臨也さんの為に頑張りました!」


悪びれもせずに、むしろ自分は功績を成し遂げたのだと言わんばかりに顔を輝かせる。テンションの上下が激しい彼女に振り回されっぱなしの臨也は、肩を竦めて深い溜息を零すと、先程の言葉の意味を本人に問い質した。


「で?」
「えッ」
「さっきの『可哀相に』は具体的にどういうことなのかな?」


ほぼ不意打ちをつく形で質問を投げられたは、思わず呆けた表情になる。だが、すぐに顔つきを引き締めると、再度臨也の耳元に唇を近づけ、言う。


「だって、臨也さんは孤独でしょう?」


それを皮切りに、相変わらずの同情まみれの声色で、言葉を紡いでいく。


「……趣味で散々人を弄んで、何人もの人の人生を狂わせてきたのは、自分でも解ってるんだよね?自分が恨まれるべき存在に違いないってことも、仕事柄『個人の情報を売る』っていうその本人達にとっては迷惑極まりない行為をして稼いでるのも、自覚してるんだよね?」


確認を求めるようなの発言に、臨也は心中で今までの自分を肯定した。臨也自身、己が『善人』だとは思っていない。"人間の色んな面を見る"為に自分が観察対象の周りに振り掛けるスパイスは、その当人にとっては余計な非日常を招く厄介な粉だということも理解している。


「でも貴方はそれを止めることができない。趣味だから。自分の好きなことだから。―――おかげで周りは敵だらけ。貴方を心から信頼してくれる人なんていないでしょう?普通だったら自業自得っていうところだろうけども」


そこで一息入れると、は僅かに口を動かすスピードを落とし、


「私は、臨也さん自身が悪いとは思わないよ。こんな風な趣味を持ってしまった臨也さんの意志が悪いんだと思う>(●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●)


――― 一瞬。
ほんの一瞬だけ、臨也の思考が完全に停止する。の言ったことが、即座に飲み込めなかったのだ。しかし、すぐに脳を再稼動させ、の次の言葉を聞いた時には、心の底から"何か"が溢れ出してくるのを感じていた。


「だって―――人間観察なんてものに目覚めなかったら、『折原臨也』は普通に人生を謳歌してたのかもしれないんだよ?臨也さんの中に、人間が好きだなんて感情が芽生えなければ、貴方は普通に生きて、普通に人と関わりを持って、普通に誰かと支え合って、普通に普通に生きてたのかもしれないんだよ?」

「……私は今の臨也さんも好きですけどね。そんな貴方が不憫で仕方ないの。だから、もっと早く出会ってれば、貴方をズレた道から引っぱり戻すことができたのかもしれないって、いつも考えてた。もう遅いけど」

「ああ……可哀相。こんな歪な愛情を抱くことになる心を持って生まれてきて、




貴方はなんて可哀相なんでしょう





「……」


ここまで露骨な憐憫の情を向けられたにも関わらず、臨也は少しも気分を害していなかった。それどころか、むしろ喜びにも似たものが、彼の中に湧き上がってきていたのだ。


―――面白い。
―――まさか、俺のことをそんな風に捉えてる人間がいただなんて。
―――なんで今まで、この子の話を真面目に聴いてあげようとしなかったんだろう。
―――君は実に興味深いよ、


つい先刻までは鬱陶しいストーカーでしかなかったが、今のこの短い時間内で、臨也の大好きな"興味深い観察対象"へと変身を遂げた。


―――
―――君はこんなにも可哀相な俺に惚れてくれた。
―――だったら、俺も君を一人の人間として精一杯愛することにしよう。
―――だからもっと、その面白い胸の内を聞かせてくれ。
―――その為ならば、俺はどんな可哀相な奴になっても構わない!