最悪だ。
なんで、よりにもよって鞄の中の整理を昨日してしまったのだろう。就寝前に暇を見つけたからといって、変な気まぐれを起こすんじゃなかった。
肝心な時に間が悪い自分に溜め息しか出ない。――もっとも、いくら私が惨めに濡れようが、この雨がやむことなんてないのだけど。

もうすぐ梅雨の時期だなんだと言われている中、カラッとした晴天が続いていたこの頃。――だからこそ、完全に油断していた。いざという時のためにいつもスクールバッグに忍ばせていた折り畳み傘を、荷物になるだろうという理由で抜いてしまったのだ。
今朝目覚めた時も、空は見慣れた綺麗な青色で。朝支度にもたもたしながら家を出た際には薄く灰色の雲がかかっていたが、雨の予報もないし〜と通常サイズの傘も持たずに、ノコノコと通学路を歩いていた――ら、最悪のタイミングでそれはやってきた。
ぽつ、と冷たい水が一滴頭上に落ちてきたかと思うと、ぽつぽつと数を増やしてあっという間にザーザーぶり。
つい癖で鞄の中を漁り始める私だったが、昨晩自分でお役御免の烙印を捺した折り畳み傘は、当然その中にはなく。
容赦なく降り続ける雨を全身で浴びながら、たった12時間ほど前の己を呪ったのだった。


「ああ、もう……」


おまけに、今いる位置も実に最悪な場所だった。
雨宿りができそうな目ぼしい雨避けがないうえに、丁度我が家と学校の中間地点で、傘を取りに引き返すこともできず(今から戻れば大幅な遅刻が確定)、大人しく学校に向かうにしてもこの雨の調子だったら距離的にずぶ濡れになることは明らかで。
今日の1限目は椚先生の授業だから絶対遅れたくないのだけど、恐らく着いたら即保健室に直行することになるだろう。
それでも、また一度家に帰るよりは時間のロスがないので、一刻も早く学校に行くべきなのだが。


「遅刻……」


授業に遅刻して椚先生からのお説教をくらうのは確実なので、急ぐ気力もごっそり減ってしまう。
歩道の真ん中でうだうだしていても仕方ないと理解しつつ歩き出すも、気分はどんどん落ち込んでいく。
『今日も気持ちのいいお天気が続きそうです!』という朝の天気予報のお姉さんの明るい声が、思い出したように脳内に響いて、やるせない気持ちがふつふつと募っていく。
悪いのは、すっかり気を抜いてしまった自分自信なのに、八つ当たりし始めそうになっている辺り本当に嫌になる。そもそも天気予報も毎日テキトーに聞き流してるだけだから、全然関係のない地域の情報が頭に残っているだけかもしれないし。


「…………ん、?」


せめて薄く施したメイクが落ちないようにと俯き気味に歩いていたら、急に頭に僅かな重みを感じた。――同時に視界に影がかかって、私は思わず立ち止まる。


「お仲間がいましたねぇ」


死角となった真横から聞こえてきたのは、どこか含みのある声。
びっくりして隣を見やると、私の身長より高い位置に見覚えのある顔があった。


「日々樹先輩」


こんなどんよりとした雨の中でも、一点の曇りもない笑顔を浮かべている人物。長い銀髪が特徴的な、同じ夢ノ咲に通う先輩の名前を呟くと、お喋りな彼にしては珍しく――返ってきたのは一言。


「走れますか?」
「えっ」
「急がないとお互い遅刻ですよ」


一瞬忘れかけた事実を指摘され、ハッとなるも、もはや私には半分どうでもよくなっていることだった。しかし、そんな諦めの滲んだ私の本音を知らないか、気づいていながらスルーしているのか――日々樹先輩は私の肩をぽんぽんと軽く叩き、「行きましょう」と短く声をかけてから有無を言わさない形で走り出した。


「えっ、あっ……」


まともな受け答えができないまま、釣られて駆け出した私の腕を引く。一度しっかりとこちらを振り返ってくれてから。

――そして、前を走る日々樹先輩の姿を見て、私はその時やっと、自分の頭にかけられた物の正体を知る。――やけに濡れる感覚がないと思ったら。
学院では日々樹先輩しか着ていない丈が長いブレザー。私の体をすっぽりと覆うそれは傘の代わりとなって、降り続ける雨から私を守ってくれていた。




閉まりかけていた門をくぐり、受付を済ませると、一直線に昇降口へ向かう。何かに追われるように、ダッシュした勢いを殺さぬまま駆け込むと、膝に手をついて盛大に息を吐き出す。
全力疾走とまではいかなかったものの、ほとんど走りっぱなしだった。それなりに距離もあったので、ぜえぜえと息があがってしまっている。
屋根のある場所にようやくたどり着けたという安堵から、同時に力も抜けてしまいそうになるが、これから教室までの階段を上らなければならないことを考えると、ぼやぼやしてる暇はない。ほぼギリギリだが、なんとかチャイムがなる前に来れたのだ。これを無駄にする訳にはいかないだろう。
本当にありがたいことに、日々樹先輩が貸してくれたブレザーのおかげでびしょ濡れにならずに済んだし、保健室に足を延ばす必要がなくなった。
今から教室に行けば、ちゃんと間に合う時間だ。


「やはり、諦めなくて正解でしたね! 見事なまでの滑り込みセーフです! 受付のお嬢さんには苦い顔をされましたが、まあ、結果オーライということで。――ほらほら、せっかく始業前に到着できたんですから、“いつも通り”教室に行きなさい」


肩で息をする私とは反対に、呼吸一つ乱していない日々樹先輩は、テンション高らかに饒舌な喋りを披露する。
朝一番から体力を使い果たしてぐったりしている私とは何もかもが対極的で、いっそ元気を分けて欲しいくらいだ。
頭のてっぺんからずぶ濡れになっているというのに、能天気なのか、私に気を遣っているのか……。

――通学路で『お仲間』と言われた理由は、ただ単に遅刻寸前だっただけではなく、傘を持ってない状況で雨に降られたからという意味合いも込められているのだと、走ってる途中で気がついた。
十分雨避けになるだろうブレザーを私に貸したことで、自分が雨から逃れる手段をなくした日々樹先輩は、見事なまでに全身水浸しで。
普段、活発的に動き回る本人に合わせて自在に靡く髪は、水分を吸って重みを増し、毛先から雫を垂らしている。服は言うまでもなく肌に張り付いていて、とても着心地が悪そうだ。
今日はまだ天気も悪そうだし、もしかしたら一日中乾かないんじゃ……。


「んん〜? どうしました? 私の顔をジイっと見つめて。水も滴るなんとやらでしょうか。――構いませんよ! さんが見たいと思うのなら、どうぞ好きなだけ目に焼き付けてください!! さあどうぞ!!」


感謝の言葉や懸念をどうやって伝えようかと迷いながら日々樹先輩を直視していたら、何を勘違いしたのか、さらに声を張り上げて大仰なポーズをとり始めた。
――確かに、綺麗な顔と均整のとれた体躯は、さすがアイドルだと言うに相応しい。水を被った姿も、見ようによってはさまになる。が、軽快な性格がそんな雰囲気をもろとも吹っ飛ばしているので、正直見惚れる隙がない。
「さあ! さあ!!」と連呼してモデルばりに格好をキメるこの人の突発的な思考や行動には慣れているが、今はそれにノってる場合じゃない。


「あ、あの! ブレザーありがとうございました! 本当に助かりました。これ、クリーニングに出して洗濯……」
「ん? ああ、いいんですよ。私が好きでやったことですし。濡れて困っている女性を放置して素通りする趣味はないですしね」


ブレザーを胸の前で抱えて差し出すと、日々樹先輩は「お役に立てたなら何よりです」と嬉しそうにそれを受け取った。


「日々樹先輩はどうするんですか……? 一日その状態、はキツいですよね」
「それはお気になさらず。制服の代えくらいは校内にあるでしょうし、いざとなれば着られる衣装が部室にありますから」


私の力量では力になれるか分からなかったが、このまま場を去るのもなんだか忍びなくて、一応尋ねてみる。
気にするなと言われても、もうすぐ一限目が始まる時間だ。まさかこのままの状態で教室に出向く訳にもいかないだろうし、一体どうするのだと不安になる。
――そもそもこの『奇人』と呼ばれる日々樹先輩が、一日の始めから終わりまで、教室の机に座って毎日大人しく授業を受けているのかさえ、知らないが。そこは今は突っ込まない方向で。


「私の心配はしなくていいので。貴方は本鈴が鳴る前に、はやく教室へ向かいなさい。さもなければ、ここまで必死に走った時間が全て無駄になりますよ〜いいんですか?」
「! それは……!!」


とても困る……!
私は思い出したように弾かれて下駄箱へ足を向けると、水滴がたくさんついたローファーから慌てて上履きに履き替える。
日々樹先輩の脅しみたいな口調に急かされて、気持ちまで落ち着きがなくなる。


「えっと、またお礼させてください!」
「ふむ……。では、“風邪を引かないこと”。この天候ですし、下校の際は学院で傘を借りるなりしてお帰りくださいね」
「……それでいいんですか?」
「貴方には元気でいてもらわないと困りますので。プロデューサーとしても、 さんとしても」


日々樹先輩が頬を緩めて微笑む。穏やかな表情にまっすぐ見つめられて――私は今日初めて彼から目を逸らした。
さっきまで賑やかだったのにずるい……!なにそのギャップ!と心の中で呟いて、行き場のない胸の高鳴りを収める。


「日々樹先輩のほうこそ体調崩さないでくださいね……!失礼します!」


ひらひらとこちらに手を振る日々樹先輩に、最後に軽く頭を下げてから、早足で廊下を行く。

窓の外は土砂降りだけど、私の気持ちはなんだか晴れやかだった。