「ねえ、″いいこと″しない?」
弧を描いた口端から覗くのは白い牙。心なしか弾んでいる声と、どこか恍惚とした色を湛える赤い瞳を前にして、の頭上には疑問符が浮かぶ。
「いいこと?」
「そうそう」
ぽかんとした表情で小首を傾げるに対し、凛月は人の良さそうな笑みを絶やさないまま、背中に隠していた一枚の紙をの前で広げてみせた。
「駅前で配ってたんだ」
印刷されている面をに向けながら、大きく書かれた一つの単語を指差す。「……『献血』?」訝しげな顔をしてがその文字を読むと、凛月の笑顔がさらに濃いものになった。チラリと見える牙はそのままに、瞳は満足げに細められる。
意図は掴めないが、明らかに上機嫌。――まだいまいち状況がのみこめないにとっては、少々不気味ともいえる光景だ。こちらから促さない限り話の続きを口にしそうにない雰囲気を纏っているのも、何らかの思惑があるかのようで不安を煽る。
「献血がどうしたの?」
「立派な社会貢献だと思わない?」
聞き返せば、間髪を入れずに言葉が返ってきた。
「他人のために自分の血を分け与えるなんて見上げた行いだよねぇ……。実際それで助けられる人がいるわけだし、誰かの命の役に立つってすごいことだよね。″いいこと″だよ」
うんうんと何度も首を縦に振りながら、ハッキリとした口調で語る凛月。言い聞かせてくるような喋りと、率直に目的を言い出さないあたりにの直感が僅かに嫌な気配を察知する。
無意識に一歩後ずさりをすると、にこにこしながらもの動作を見逃していなかった凛月が、焦らしていた本音をようやく吐き出した。
「求めてる人に与える。いいねえ……人助けだよ、これは。今も丁度ここに″求めてるひと″がいるわけだし?」
「だから。……ね?俺に″いいこと″してよ」
狙った獲物に食いかかる寸前のような低い声。
――予感が当たった。と言わんばかりに苦笑いを張り付けて後退するに、凛月がじわじわと距離を詰める。さして広くもない部屋の中。すぐにの逃げ道はなくなり、背中が平らな行き止まりに触れた。
「……ふふっ」逃がす、という選択肢など当然ないといった風に、凛月はの顔の横に右手をつき、左手で髪を耳にかけると、露になった白い首筋へ、口を――
「おい凛月! お前またそうやって……!」
――近づけ、牙がの肌に食い込もうかという、正にその直前。
焦燥を滲ませた声が響いたと同時に、に密着していた凛月の体が襟を引っ張られる形で彼女から引き剥がされた。
「声が聞こえたから様子を見てたら……凛月、を言いくるめて追い詰めるのはやめろ」
「っ、放して。……ああ、もう、なんでま〜くんがここにいるわけ?」
「たまたま通りかかったんだよ。ったく……」
に迫っていた時とはうって変わって露骨に不機嫌な声色になり、ワインレッドの頭をガシガシと掻く幼馴染みを睨む凛月。
反省の色も何もないその態度に、の前に立って彼女を背中に隠した真緒は、大きなため息を一つ零す。
「お前なあ……。あんまりてきとうなこと言ってんなよ?『お金に困ってる人がいれば分け与えるのは良いこと。募金活動と一緒だ』とかなんとか言って理不尽にカツアゲする連中とかわらないぞ」
「うるさいなあ。……あーあ、ま〜くんが来なかったら久々にたっぷりの血を吸えてたのに」
「それ、が貧血起こしたらどうするんだよ。……いや、そもそも首筋に牙を立てて血を吸うっていう絵面が……」
呆れた様子で首を左右に振る真緒は、背後にいるの体を手で優しく押す。それから一瞬だけ後ろを振り返ると『今のうちに逃げとけ』と小さな声で囁く。
返事を聞く間もなく、すぐに前を向き直し再び凛月にいつものお説教を始める真緒。その背中をじっと見つめて、心の中でお礼を言うは、静かにその場を後にする。
ライブの前などは、『最大限の力を出せるように』を理由に凛月が血を欲しがったら大抵は大人しく要望を受け入れるのだが、何でもない常日頃から狙われていては身が持たない。
以前は″お願い″を断りきれずに、されるがままになってしまい貧血で倒れた経験もあるので、正直、今回真緒が間に入ってくれたのはとても有りがたかった。
凛月に気づかれることなく、ドアをゆっくりと閉めて去っていったの姿を確認すると、真緒はほっと息を吐いて、続けていたお説教に区切りをつける。
「あんまりに負担かけるんじゃないぞ」
「あーはいはい。今度からは絶対ま〜くんに見つからないようにするね。ちゃーんとも説得して……あれ?は?」
「反省の″は″の字もないな。には帰ってもらったからな」
生返事をしながらを探す凛月に真緒が端的に返す。
「えー……いつの間に?ま〜くん、抜け目なさすぎ……」
案の定落胆する凛月。しかし、注意されることにも慣れ、真緒本人の人柄も知り尽くしているからなのか、すぐに気を持ち直して口元に笑みを浮かべる。
「まあ、いいや。またの家に泊まりに行った時にでも飲ませてもらおっと」
何気なく呟いた一言。しかし、それのせいで再度真緒のお説教が始まったのは言うまでもない。