※ 零が最低
スンと鼻をならすと同時に、なんともいえない不快感に包まれ眉間に皺を寄せた。
目の前にいるが疑問符を頭上に浮かべて不安げに首を傾げるが、生憎それに構うより、僅かに芽生えた苛立ちの原因を探求することが先だ。
反射的に脳裏に浮かんだ――襟足の長い黒髪の青年の姿は、今、ここにない。
そもそも、現在いる場所は彼や自分が所属している部活の部室でも、ユニット練習をする際のレッスン室でもないうえ、人外を自称する忌々しいあの部長兼リーダー本人のにおいも、彼が付近にいないので鼻につくはずもない。
しかし、なぜだか、どうしたことか。
今しがた目の前に現れたから、嗅ぎ慣れた仇敵のにおいがしたのだ。
甘いにおいは苦手だ。無駄に存在感を主張するキツい香水の類いも嫌いだ。けれど、薄い石鹸の香りを纏う彼女の、のにおいは好きだ。
それが、一体どうして、ほぼ全て消え去り、代わりにまるであの男がここにいるかのようなにおいが彼女の体から漂っているのだろうか。さらに言うならば、空気中を浮遊する掴みようのない″もの″ではなく、全身にべったりとこびりついた、払ってもとれないとさえ思えてくる、濃い″もの″なのは、何なのだろうか。
「おい」
まだもやもやとした感覚が残るまま声をかけると、はわずかにビクリと肩を跳ねさせた。捕食される小動物を彷彿とさせる態度に若干イラついたが、いちいち言及するのも面倒になり率直に本題を聞き出す。
――としては、なかなか反応がなかった晃牙から不意打ちで話しかけられたことに少しびっくりしただけだったが、それが彼に伝わることはなく――。
「テメー、吸血鬼ヤローに何かされたのか?」
いつもより真面目な声色で放たれた晃牙の言葉に、思考がほんの一瞬、停止する。しかし、その単語を耳にした脳は反射的に記憶を掘り起こし、フラッシュバックする形での理性を奪う。
『吸血鬼ヤロー』と聞いて、思い浮かぶ人物は一人。
妖しい雰囲気を纏った、自称「吸血鬼」。
標的にした獲物を捕らえて離さない深紅の双眸。砂糖を溶かしたような蕩けた視線と、恍惚に染まる瞳。流れるように美しい黒髪は、腹立たしいくらいに指通りがよく。普段、不健康な色をしている白い肌は、高揚を感じて仄かに人らしい暖かさを取り戻していて。桃色の唇は吸った血液の赤で上塗りされ、生気のある舌が首筋を這う感触は、寒気がするほど気持ちが悪かった。持ち前の腕力で無遠慮に衣服を破いてきた時の荒々しさは、まさに餓えた狼としか例えようがない。あるいは、金品を目の前にした形振り構わない盗賊か。
じっくりと味わうかの如く執拗に動いていた長い指も、細身でありながらしっかりと筋肉のついた男性らしい体も、劣情の籠った低い声も――全ての光景が、熱が、音が、痛みが、蓋をしていたはずの鮮明に刻まれた記憶が、晃牙の一言で決壊した。
「、おい!」
両手で頭を抱え、その場に蹲ったに歩み寄って屈む晃牙。息をあげて制服のスカートにぽたぽたと涙を落とすの様子にただならぬものを感じて、いつもの勢いがなくなる。
――顔からサッと血の気が引いたかと思えば、視線が落ち着きなく彷徨い出した。そして段々と呼吸が速くなり、ぐしゃりと髪を握り込む形で小刻みに震え始めたのが直前の容態だ。
「……」
こんなとき、落ち着かせるために黙って寄り添うことも、気の利いた言葉をかけて慰めることにも長けていない晃牙は、どうしても相手に一歩踏み込むことができない。
普段のに対してならば、多少ぞんざいな態度もとれるのだが――今、触れるとそれだけで壊れてしまいそうな弱々しい姿のには、迂闊に言葉をかけることさえ躊躇ってしまう。
「何をしておるんじゃ」
音もなく。
背後から響いた静かなアルトボイスに、晃牙が振り向くより先にの体が大きく震えた。
その特徴的な口調を聞けば、見ずとも“誰か”を特定することは容易だ。
廊下の真ん中。座り込む二人を見下げて状況分析をしている声の主――今しがた話題になっていた男、朔間零はに視線を固定すると、妖しく口角を上げた。
無論、それは一瞬で消し去り、声をかけた時にはいつもの冷静な面持ちに切り替えたのだが。
「……わんこの前にいるのは嬢ちゃんか?座り込んで、どうした」
「吸血鬼ヤロー!テメーどっから……!言っておくが俺様が乱暴したとかじゃねえぞ。……おい、、手ぇ貸すから、とりあえず立てるか?」
零が会話の起点を作ると、晃牙も勢いを取り戻し、ハッとしてに話しかける。
顔を覆っている両手を無理矢理剥がすのには抵抗があったので、足の力が抜けたまま立てなくなってる腰に腕をまわす。
「大丈夫か?」
極力穏やかに耳元で尋ねると、は首を横にふるふると振った。そして自ら晃牙との距離を埋めると、縋るように腕を伸ばして抱きついた。ぎゅっと制服を掴んで、涙に濡れた顔を彼の胸板に押し付ける。
「、」
「嬢ちゃん、泣いておるのか?」
「……よく知らねえけどよ。テメーのことについて聞いたらいきなり様子がおかしくなってな。そもそも会った時から吸血鬼ヤロー、テメーのにおいがの体からプンプンすんだよ……!」
「だから、が応えないならテメーに直接聞く。に、何かしたのか?」
――のしゃくりあげる泣き声が響く。
面と向かって晃牙から問い質された零は、飄々とした雰囲気を消し去ると、小さな溜め息を一つ落とした。
細められた両目は、晃牙――――ではなくを捕らえる。
「そうじゃった。我輩、の嬢ちゃんを捜しておったんじゃよ」
「質問に答えやがれ」
「わんこには関係なかろ。大事な大事なことじゃから、二人だけで話したいんじゃが」
「よいか?」
軽音部の部室は、相変わらず暗幕がかかっていて薄暗かった。外はまだ明るいが、この部屋だけは夜の帳が下りたみたいに閑散としている。
零先輩にとっては、もはや住居と化している棺桶を置いて、根城としている一室。いわば、縄張りである。
今日は部活動もないので、文字通り“人気がない”。
「よしよし。怖かったじゃろうて」
私を横抱きにしていた零先輩が、壊れ物を扱うかのようなゆっくりとした動作で私を床に降ろす。
白々しい発言に返す言葉もなく黙って項垂れる私の髪を、零先輩は優しく撫でる。
その気になれば、私の頭なんて叩きつけて潰せるだけの力があるくせに、いつまでも取り繕った善人の仮面を被っているのは、見ているだけで気分が悪い。
――晃牙くんは確かに憤っていた。でも無闇やたらに当たり散らしてはいないし、理不尽に怒ったりもしていなかった。むしろ私を気遣い、零先輩が現れてからは庇ってさえくれたし、何より私は彼に対して恐怖を抱き泣き崩れていたわけでは決してなかった。
ああなった元凶は他ならない、いま傍にいる朔間零先輩なのだから。
「わんこに何も話しておらぬなら、痛いことはせんから安心せい」
そう言って腰を下ろし、私の額にキスを落とすと、そっと抱き締めてくる。
手つきは穏やかだけど、それはまだ理性を保っているからであって。欲望をぶつけられた時の獰猛さを知っている身としては、いつ目の前の獣が牙を剥くのかが分からなくて、ただただ、怖い。
脳裏に焼き付いた光景が、あの時抱いた恐怖が、何気ない一言で甦ってしまう。
いつからだったか――なんて、正確には覚えていない。
頼れる先輩。何でも知っていて、いざとなれば助けてくれる心強い存在。まだ右も左も分からない時期から手を貸してもらっていて……。それに対して、零先輩が私に求める見返りがだんだんと大きく、歪んだ方向に走っていったのは本当にいつからだったか。
今では借りの有無に関係なく、衝動のままに求めてくるようになったし、行為がほぼ無理矢理なので、その都度私を脅して口止めをしてきている。
ああ、晃牙くん。
心配かけちゃったな。不審に思っただろうな。
もしかしたら廊下で別れた今も、私や零先輩のことを考えているかもしれない。
言動は荒いし、不器用だし、ちょっと強引だし――でも、とてもとても優しいから。私がされている本当のことを知ったら、多分、黙ってないんだろうな。
零先輩が私を晃牙くんから引き剥がす時も、私が抵抗したらまた庇ってくれたんだろうね。
でも、巻き込む訳には行かないから。私は大人しく零先輩に付いてきたのだけど。
「昼間は体が重くて仕方がないんだがの……。気紛れに外に出て正解じゃったか」
「……」
「わんこもああ見えて目敏い奴じゃから、次に会った時も、決して口を滑らせんようにな」
息がかかる距離で釘を指される。不本意ながらそれに短い悲鳴を上げて反応しまい、慌てて唇を噤む。――けれど、すでに声が漏れてからでは遅く。
吐息混じりに笑みを零した零先輩が、私を抱いている腕に力を込めた。
「聞き飽きない声じゃ」
昂りを抑えた熱っぽい声色がすぐ傍で響いて、本能的に逃げたくなる。
……もしかしたら、もしかしたら。始まってしまうのだろうか。まだこの人の活動時間帯ではないのに。暗くなる前に、捕まる前に、逃げようと思ったのに。
もう、嫌なのに。
「まだ陽は高いが……本番前の準備運動と考えればよかろう」
視界が反転する。
目が慣れたのか、天井を背景に迫ってくる零先輩の表情もしっかりと認識できた。不適な微笑を浮かべて、鋭い牙を覗かせている。
同時に、体が強く引っ張られる感覚。――ブチブチブチッと鈍い音がしたかと思えば、開放的になった上半身に零先輩の大きな手が触れた。そのままグイと下着を首元まで上げられると、いよいよ私も羞恥で涙が滲んでくる。
もう片方の手はスカートの中に伸び、薄い布の上から私の一番敏感な部分を撫でてくる。
逃げたい。触らないで。やめて、やめてよ。
嫌だよ。やめてください。
心の中で何度も何度も抗議の言葉を吐き出しながらも、口に出すことはできない。
痛いのは一番嫌だから。抵抗しなければ、殴られることはないから。
求められる私にできるのは、都合のいい人形のように黙って体を差し出す他ない。