すっかり暗くなった夜道を歩く。
全国的に厳しい寒波に襲われる二月の初旬。穏やかな気候の冬木市も、流石に完全に日が落ちるとツンとした冷気が肌を刺す。私はつい最近、深山町に引っ越してきた高校一年の転校生で、今日も『!町を案内してあげる!』というクラスメートの女子に手を引かれて、放課後に新都を大冒険してきた。新しい景色と新しい友達。賑やかな彼女たちに囲まれていると、転校前の不安や心細さは簡単に吹っ飛んだ。まだ環境には慣れていないのか、この町に来てから少し気だるいような、いまいち頭が冴えない感じが続いているのだが――遊んでいる間はそんな違和感も忘れるくらいに楽しかった。
おかげで気づいた時には、時刻は二十一時過ぎ。この頃物騒なニュースが多い中で、完全下校時刻も早まったというのに、これでは全く意味がない。堂々と歩いてていい時間ではない、と慌てて皆で解散してきた。特にこの深山町は、新都と比べると人気もなくて、ひっそりとしている。閑静な住宅街といえば聞こえはいいが、夜が深まってくるにつれ、不気味なくらい静かになる。見渡す限りに人影もなく、自然と歩くスピードがあがって、私の足は一直線に自宅を目指す。

長い長い坂を上っていると、丘の頂上にある大きな洋館が目に入った。西洋の町に建っていそうな立派な邸宅。転校してきたその日から、分かりやすい話題として在校生に教えてもらったのだけど――――なんでも、深山町の洋館が集まっている頂に、幽霊屋敷と呼ばれる家があるらしい。おまけに、その坂の上付近には怖い魔法使いがいるのだとか。高校生にもなって、何故そんな子供騙しなオカルトが流れているのか疑問に思ったが、どうも昔から囁かれている噂らしい。
都市伝説――とまではいかなくても、どこの地域にもこんな話はあるんだなと感心する。ちなみに私の家は、その洋館が建ち並ぶ場所の手前。ギリギリご近所さんといえなくもない距離である。


「…………」


お金持ちの貴族が住んでるみたいな大きな洋館、ね。この場に越してくる前は、ちょっと洒落た観光地でしかそんな建物を見る機会なんてなかったから、日常の風景の中に¨あれ¨がドーンと建ってるのは、私の感覚では少々違和感がある。いずれ慣れていくのだろうけど、暫くは好奇の目で眺める日々が続きそうだ。なんてったって、童話に出てきそうなお屋敷だ。私がもう少し幼かったら、強く惹かれていたに違いない。実際今も、心の底では正直な好奇心が芽を出している。淡い月の光を浴びて、夜の暗闇の中に浮かび上がるさまは、それだけで雰囲気抜群だ。

…………門の前を通りすぎるだけでいいから、寄ってみようかな? かなり回り道にはなるが、そう遠くもないし。遊びに行く訳でもないから、家にだってすぐに帰るし。昼間に行った方が目立ちそうだから、誰にも見つからなさそうな今の時間に、ちょっとだけなら――。


「……うん」


真っ直ぐ自宅へ向いていた足が、分かれ道で逸れる。¨幽霊屋敷¨なんて仰々しく呼ばれてるみたいだけど、反面悪い話は聞かなかったし。もちろん私もお化けの類いは得意ではないが――新天地にやって来たうずうずが、まだ収まりきっていないのだろう。友達と急いで解散した理由も、今だけ都合よく頭の隅に追いやる。短い間に決定した私は、久しぶりの感情に胸を高鳴らせた。真夜中でもないし、多分平気。自分に言い聞かせると、途端に後ろ向きな気持ちは消えていく。一度気乗りした足取りは、想像以上に軽くなる。大丈夫、ちょっと見に行くだけだから。




「うわ……」


頂上にあるお屋敷にたどり着いた。目の前に立つと、その立派な佇まいにやっぱり圧倒される。すごい、すごいなあ。ごく一般的な一軒家のうちとは、当たり前だが大違い。外観も綺麗だし、パッと見幽霊が住み着いてるイメージは湧かない。……ああ、でも周りの木々のせいで鬱蒼としてるから、確かに明るい印象は持たないかも。特に夜だとそう感じるかもしれない。敷地内からは明かりが見えるから誰かがいることは確実だが、辺りはシンと静まりかえっている。チャイムの一つでも鳴らせば、静寂によく響くドアの音と共に上品なご婦人が顔を出してきそうだ。無論、用もないので呼び出すつもりは毛頭ないが。
家族の談笑する声や、テレビの音といった生活感溢れる音声は、一切外には漏れてこない。それがより想像力を掻き立て、勝手にあれこれとファンタジーな思考がよぎる。自分はとっくに現実に夢を見る子供ではないことは承知で、しかし俗世離れした妄想を脳内で繰り広げざるを得ない。


「誰だ? 何をしている」


ざあっと風が木々の隙間を通り抜ける。同時に前方から低い男性の声が聞こえてきて、どこぞの世界に飛びかけていた私の意識が一瞬で戻ってきた。目を凝らして眼前を見据える。誰もいない。唾をのんで辺りを見渡す。――私以外の人の姿はない。遠い場所に、新都の明かりが見えるだけだ。


「此処に何の用だ。ただの通りすがりではあるまい」
「……あ、あのっ」


声は屋敷の中から響いてるみたいだった。視界には人らしい形もないが、近くにいることは理解できる。もしかして、お屋敷の使用人か誰かに見つかって怪しまれてしまった?


「私、最近このへんに引っ越してきて、ここのお家……洋館が珍しいので眺めて、ました。そ、それだけです。すみません」
「…………」
「すぐに帰ります!」


勢いよく頭を下げて、サっと素早く踵を返す。本音はもっと居たかったけど、仕方ない。長く居座ってだらだらと言い訳を並べるより、端的にここにいた理由だけを述べて潔く身を引くべし。意味もなく鞄を抱き締めてその場を立ち去ろうとすると、「いや、待ちたまえ」とその行動を引き止める言葉が背中にかけられる。「…………」色々と問いただされる可能性を考えて、駆け出して行きたかった本心をぐっと抑えて振り返る。しっかり耳に届いたから、シカトするのも気が引けたし――。


「――――」


暗い世界に慣れた瞳が、新しい色を前にして僅かに動揺する。――赤。腰の部分の真っ赤な外套が冬風に吹かれて揺れている。胸の前では赤い両腕が組まれ、夜中でもハッキリと視認できる白い頭髪の下には、褐色肌の澄ました顔。こちらを見下ろす両目は、露にした警戒心を解く気配はない。――いつの、まに。


「念のため訊くが、君は凛の学友ではないのだな?」
「? ……りん?」


赤い男の人が一歩、二歩と近づいてくる。……高い。かなり、身長が。


「――違うならいい。先程までの君の弁明だが、ただ物珍しかったから眺めに来ただけ、と」
「は、はい」
「なるほど。他意はないな?」
「は、い」
「……………………」
「えっと……?」
「……。一般人か」


私の視界が分厚い胸板でいっぱいになる前で立ち止まって、質問を投げかけてくる。硬い表情と衣服越しでも分かる鍛え上げられた筋肉が目の前にくると、対幽霊とは別ベクトルの怖さを覚える。音もなく現れたところは幽霊を彷彿とさせるが、くっきりとした実体を持ってるうえ、会話が成立している彼はどう見ても霊ではない。けど、傍から見れば若干怪しい構図には映るかもしれない。それを自覚して、一旦落ち着いて状況を客観視する。――周囲に人気が全くない夜中、用心棒みたいな大柄の男性から尋問を受けている。屋敷を見物していただけ、という点を強く確認され、最後ぼそりと吐かれた一言は『一般人か』。


「……っ」


とある結論に行き着いた途端、さっと血の気が引いた。自己解釈に過ぎないが、それ以外は考えられないと危険信号が脳に響き渡る。ここは、来てはいけない所だったんだ。幽霊屋敷だなんだと噂が立ってるのは、ただ単純にこの場に近寄らせないために誰かが警告として吹聴したのではないか。事実、格好こそ¨それっぽく¨ないが、明らかに荒事に向いていそうな男の人が屋敷から出てきたのだ。勝手な推測だけど、間違ってる可能性は低そうで――。


「ぅ、……ぅぅ」


どうしよう。逃げたい。逃げなきゃ。逃げたい。逃げなきゃ。どうしよう。
体力は有り余ってるはずなのに、脚は地面に固定されたみたいに動かない。気持ちは全力で逃げたいと叫びながら、体は恐怖で一向に動いてくれない。噛み合わない心身をどうしていいか分からず、理性を無視してぼろぼろと涙が溢れてくる。喉から絞り出される声は悲鳴にもならずに、小さな泣き声として夜の空気に溶けていく。こわい。どうしよう。こわい。


「なっ――」


止まらない涙。両手で目頭を押さえながら、男の人の顔すら見ることができずにいると、驚いたように息をのむ短い声が落ちてきた。


「なぜ、そこで泣く? 君、一体何を考えたのか知らないが、私は、」


次に、今までの冷静さが失われ、あからさまに慌てた様子の声色が私にかかる。相手からすれば、いきなりの事だっただろう。ああ、やだな。もし今誰かが通りかかったら。こんな状態で弁解もなにもない。これ以上どうすることもできず――暫しの沈黙のあと。


「……怖がらせてしまったのなら、すまない。泣かせたかった訳では……いや、まさか泣かれるとは」
「…………」
「顔を上げてほしい。私は、君をどうこうするつもりはない」


今度は下から話しかけられてると思ったら、男の人が私の前で膝をついて屈んでいた。丁度、目線が一緒になるくらいに。目を拭う指の間から見えた男の人の表情は、さっきと比べるまでもなく威圧感も消え去って、普通の青年みたいに映った。こちらを真っ直ぐに見つめる薄い色の瞳に、敵意は見受けられない。それどころか、視線は心配してる風でもあった。私は制服の裾で濡れた目元を拭いて、ぐず、と鼻を鳴らしてからゆっくり前に向き直る。


「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。――もう夜も遅くなる。泣き止んだなら、はやく家に帰るんだ」
「……はい」


不安げに私の調子を窺う男の人。私とほぼ同じ高さにある目と、だいぶ低くなった身長が、この人の人柄を表してるようで、そこからはスッと涙が引いた。勝手な想像で生み出した恐怖もだんだんなくなり、心も平常に戻る。――ああ、でもほんとに、子供みたい。まさかこの歳で初対面の人の前で、怖くて泣いてしまうなんて。情けなさすぎて、絶対に今夜のことは誰にも言えない。


「家はこの近くか?」
「はい。ここから坂を少し下ったところです」
「そうか。……近頃はこの辺りも物騒だ。女性の一人歩きは、くれぐれも気を付けるように」
「ありがとうございます。……すみません」


お互いに警戒心の色はすでにない。私は言葉から滲み出る優しさに萎縮して、思わず謝ってしまったが――元々こちらの早とちりで動揺させてしまったのだ。沸々と込み上げてくる申し訳なさを、全て内に閉じ込めておくことはできず、立ち上がった男の人に深く一礼する形で示す。

坂を下る際も、度々振り返って軽く頭を下げながら屋敷を離れた。今、何時かな。体感で三十分は経っていそうだけど……。帰宅したら親から大目玉をくらう覚悟で、家を目指す。
結局、あの¨幽霊屋敷¨がどんな場所なのかは分からなかったが、探ることが目的ではなかったので、別段後悔はない。この町にいれば、いずれ詳しい話も耳にしそうだし、あるいは誰かに訊いたら案外簡単に真実を知ることができるかもしれない。


「……ふう」


家の近くまできた時。なんとなく、一度屋敷のほうを見上げた。そういえば、新都からの帰り道を歩いてる時よりも遅い時間になっているのに、人気のない夜道に抱く不気味さが気のせいかあまりないような。それは、そう、例えるなら誰かが――。




「…………」


遠坂邸の屋根に立つと、冬木市の夜景が視界一面に広がる。住宅地は控えめだが、発展中の新都の方面は人工的な光が煌々と輝いている。夜景を眺めるには最高の位置であるが――現在の目当てはそれではない。今しがた別れたばかりの、名も知らぬ少女。下り坂を歩いていくその姿を、人間離れした視力で捕らえたアーチャーは、彼女が自宅に帰りつくまでを静かに見守っていた。
¨珍しいから¨というだけで、人気のない夜の邸宅に一人で訪れるなど、女の子が軽率にやっていいことではない。本音をいえば説教の一つでもしてやりたかったが、既に涙目の少女に言い含めるのも気が引けたので、最低限の注意だけ促して帰したが。つい先日には近所で殺人事件も起こったうえ、犯人は未だ特定されていない。聖杯戦争も幕を開けて、この町はすでに安全ではなくなっている。せめて、もう少し危機感は持てと念を押せばよかったか――。

吐いたため息は闇に溶ける。ふと、見守っていた少女が足をとめて、こちらに振り返った。普通の人間ならば米粒程度にしか見えない距離でも、確かに彼女と視線が絡んだ。恐らくは、アーチャーしか知る由はないが。

山を撫でる夜風は冷えている。もうじき、マスターと共に町へ繰り出す。