頭がふわふわする。ついでにいうなら、足も地についてないようで、まるで水の中を漂ってるみたいだ。半分目蓋が開いた瞳に映る景色もぼやけているし、意識も覚醒しきらない。私は、今、どうなっているのだろう。何をしているのだろう。そもそもここは、どこなのだろう。現実の私は只今熟睡中で、これは目覚める前の夢とかだったら、考える必要もないのだろうけど。それにしては、肌に触れる空気の冷たさとか、足元で発光してる謎の光が眩しいなとか、胸が上下するから呼吸ができてるなとか、体にダイレクトな感覚が伝わってくるわけで。


「――概念礼装だ」


僅かに働く頭で状況を掴もうとしていると、目の前から誰かの声が聞こえてきた。瞬間、眩い光に体が包まれて、私は咄嗟に目を閉じる。――音もなく。足の爪先から全身へ。生命力のように力強く、しかし形もない何かが体中に染み込んでいく。それは、ほんの数秒間。青白い光が霧散していくと、今度はしっかりと目蓋を開けることができた。


「ようこそ、カルデアへ。俺はマスターの藤丸立香。これから宜しく」


白い服を着た黒髪の少年が、こちらに向かって手を差し出してきた。私は目をぱちぱちさせながらも、条件反射で片手を伸ばして握手をした。人の良さそうな笑みを浮かべる少年に倣って、私も口元を緩める。
――カルデア。初めて耳にする名称だが、スッと頭に馴染んでいく。それだけでなく、私はたった今ここに顕現した瞬間、¨この場所の概要¨と¨目的¨、¨外の世界の状態¨と¨自らの立ち位置¨までをも完全に把握した。まるで何かから知識を事前に組み込まれたみたいで不思議な感じだが、受け入れることは難しくない。


「新しい概念礼装……。人理修復も始まったばかりですし、心強いですね。先輩」
「ああ」


少年――マスターの左隣にいる紫色の少女からも歓迎されてるようだし、ひとまずは安心。――新しい概念礼装。私は今日から、ここカルデアでマスターやサーヴァントたちと共に人理の危機に立ち向かうのだ。概念礼装の在り方は様々だが、サーヴァントの能力値を底上げして、彼らと共に戦場に赴き戦闘の補佐をすることは共通している。魔力リソースで編まれた体は、サーヴァント達のそれとはまた作りが違うので戦いを肩代わりすることは不可能だけど、持てる力は必ず発揮できる。私も喚ばれたからには、全力で応える所存だ。


「それじゃあ――あとを任せて悪いけど、彼女にカルデアを案内してあげてくれないかな」


マスターが首を傾けて、背後にいる人物に話しかけた。私も釣られて視線を動かす。この部屋から廊下に続くドアの横に、一人の男性の姿があった。


「構わんが、おまえはこのあと用事でもあるのか?」
「うん。マシュと一緒に管制室に呼ばれてて」
「そうか。承知した」


もたれ掛かっていた壁から離れて、私たちが集まってる場所までやってくる。距離があったうえ、部屋は中心部の照明しかついていないため分かりづらかったが、かなり大柄な人だ。肩が剥き出しの黒いボディスーツを纏っているのだが、体に密着する素材のようで、立派な筋肉が強調されている。身長も高くて、決して小さいほうではないマスターと並んでもその差は圧倒的だ。近づかれると、見上げなければ目も合わせられない。

挨拶をするつもりで、私よりだいぶ上にある顔を見る。どこの国の出身なのか、肌の色は褐色。前髪が短い真っ白な髪の下には、体格から想像するよりは幾分か幼い――――。


「エミヤ!?」


二秒ほど目線が交錯してから。ぶわっと男性の周りで魔力が揺らめいて、一瞬にしてその身形が変わった。黒しかなかった服装の上には赤が足されて、下がっていた前髪はかきあげられている。おまけに、先程までの澄ました態度はどこへやら。焦りと動揺が入り交じった複雑な表情を浮かべる¨エミヤ¨と呼ばれた男性は、私をじっと凝視したまま開口している。――口を挟む余地すらなかった、鮮やかともいえる変化。事実、私はその僅かな間の出来事を、ぽかんと眺めることしかできなかったわけだが――――まっすぐこちらを向いた両の眼に記憶を揺さぶられて、息を呑んだ。決定打になったのはマスターが叫んだ三文字で、そのあとの数秒間は呼吸すら忘れた。


「えみや」


色々確かめたいことはあるが、今は浮かんだ小さな疑問を一つ一つ投げるより、もっと顔をよく見たい。しかし、マスターが放った名前を私がオウム返しすると、¨エミヤ¨は額の辺りを手で覆って俯いてしまった。セットで盛大なため息もついてくる。終始言葉は発することなく。しかし、反応があからさますぎて、もはや確認するまでもなかった。


「――なぜ」


魔力の流動で逆立った前髪が、指に押さえ込まれている。やっと口から出た一言は、訊き返すまでもなく私に向けられたもので、短いけど切実な思いが込められた問いだった。私はスウ、と息を落ち着けて答える。


「なぜも何も、カルデアの召喚式に摘出されたの。どこかの世界で、魔術に関係した誰かと、縁があった存在として」
「…………そうか」


喚び出された際に流し込まれた知識で説明すると、低い声が力なく返ってきた。ここに来る以前の私(といっても、そのまま抽出された訳ではなく、ここにいるのは所謂、高い再現度の¨コピー¨といった方が正しいのだろうが)――とある世界の元の私自身は、魔術とは無関係に生きていた普通の人間だった。けれど、親い間柄の人の中に魔術に触れて生きていた人がいたから、カルデアの召喚式に引っ掛かったのだ。あくまで私の場合は、だけど。とどのつまりは縁。そしてその糸の先は、言及するまでもなく――。


「その、¨誰か¨というのは」
「エミヤシロウ?」
「……」


名前を口にすると、彼はじっと押し黙ってしまった。エミヤ。エミヤシロウ。衛宮士郎。――うん。元の私はこの名前を、両親を指す名称の次くらいに多く呼んできた。唇に乗せて発音すると、胸にじんわりと懐かしい感傷が滲んでいく。私は魔術に関してはノータッチだったけど、毎晩の日課の鍛練でたまにお寝坊さんになる士郎を起こしに行くのが、日常の一コマだった。
脳裏に浮上してきた思い出に、自然と顔が綻ぶのが分かる。私が知っている彼とは変わってしまっていても。目の前にいるのは、間違いなく。


「君は、あまり驚いていない風だが」


頭を抱えていた大きな手が、まだ抵抗の残る様子でゆっくり離れていく。口調はあくまで冷静で、でも、眉間に刻まれた深い皺がまだ現実を受け入れ難いと語っている。まさか私がこの一大事に参戦するとは夢にも考えなかったのだろう。


「うん、なんていうか。ここで逢えたこと自体に大きな疑問はないけどね」


環境に適応するための前知識をもらうシステムのおかげで、そこまで驚きはしない。その理屈でいくと相手がすでにカルデアにいることは必然だったし、私にとっては驚愕の邂逅とまではいかなかった。
――でも、それとこれとはまた話が別で。


「だいぶ見慣れない姿にはなってるなあって」


肌と髪の色。背丈。体格。声の高さ。喋り方。私の覚えているものと合致しない点がたくさんある。そもそも私の記憶の¨いつまで¨がこの体に記録されてるかというと、どうやら顕現した外見に寄るらしい。今の私は穂群原学園の制服を纏っていて、学年は恐らく二年生の辺り。つまり¨それまで¨に得ているものが私の保持する全てである。
だから、私は分からないし知るはずもない。いくらか年を食ったとみえる幼馴染みが、そこに至るまで何があったかを。


「……。そうだろうさ」


¨エミヤ¨はバツが悪そうに自虐的な笑みをつくったあと、肩を竦めて小さく息を吐いた。


「まったく。カルデアの召喚システムも粋な計らいをしてくれる。本来ならば、私と彼女が共闘することなど」


やっと饒舌になったかと思えば、言葉はすぐに途切れる。この状況を歓迎しているような言い回しだったけど、声のトーンはどこか沈んでいて、皮肉げだ。士郎、『私』とか言うキャラだっけ?とトボけた突っ込みをする雰囲気でもなくて、同時に私も黙り込んでしまう。すると、その隙をついて。


「あの、お二人は知り合い……?」


今まで私たちのやり取りを静かに眺めていたマスターが、遠慮気味に口を開いた。紫の少女も僅かに目を見開いて、マスターの問いにこくこくと頷いている。


「……幼馴染みです!」


わざわざ包み隠す必要はない。浮かない、難しい表情の¨エミヤ¨に代わって堂々と宣言すると、彼はまたもや、ハアとわざとらしく息を零した。出逢ってから溜め息つきすぎでは? 癖なの?


「――えっ、ほんとに!?」
「となるとエミヤ先輩の、生前の?」
「そうだよー」


びっくりした二人が、ズイと近づいてくる。接近してきた三つの瞳の奥には『興味津々』の文字。……もしやこれは、質問攻めにされる五秒前? と、一歩後ろに下がって構えたその時。軽快なアナウンス音が施設に響いて、これまたノリの軽い女性の声で呼び出しの放送が流れた。用件は簡潔に、マスターと¨マシュ¨さんへ管制室に向かうよう促すものだった。


「あっ、そろそろ行かないと! 案内任せるね、エミヤ。またあとで!」


慌てて体勢を正すと、隣にいた少女と共にこの場から走り去って行くマスター。残された私と¨彼¨は、必然的に二人きり。そして沈黙が横たわる中、お互いにお互いを様子見。――なんだかとても変な感じだ。一番気兼ねなく接することができていた相手のはずなのに、もどかしい距離がある。手を伸ばせば簡単に届くからこそ、迂闊に近寄れない。
ふと、ずっと昔の自分を思い出す。勇気を出してやっと話しかけたはいいものの、緊張しすぎて本題と全然関係ない話題を振り続けてしまったいつかの日とか。あれからずっと経ったし、流石に自分も成長してるだろうと、ここは胸を張りたかったけど――情けないことに何も変わってはいないようだった。漂う気まずさを打ち破るつもりで、


「な、なんで、赤くなったの」
「は?」
「黒いときのほうが、前髪も下がってて士郎らしかったよ」


やっと絞り出したのがこれ。私が指摘したのは、先ほどの¨変身¨のこと。なんてどうでもいいことを、と我ながら後悔しそうな問いだ。実際、十中八九、軽くあしらわれると想像した。――しかし、私の感想で核心を突かれたみたいに眉をピクリと動かした¨エミヤ¨は、不機嫌っぽく、ぼそりと呟いた。


「……だからだよ」


ギリギリ聞き取れるか聞き取れないかくらいの声量は、すぐに無機質な空間に溶ける。……それは一体、どういう意味?と、根本にある意図を私が尋ねる前に、彼は踵を返して入り口のドアの方へ歩いていく。その背中は追求を避けるようにも見えた。


「付いてこい。案内をする」
「え」


スタスタと廊下へ進んでいく背中は容赦なく。淡々と告げると、私を置いていきそうな勢いで視界から消える。「えっ、待っ」はやい!リーチが長い!もうちょっとなんか、カルデア初心者に優しく――とか、文句を考えてたら見失いそう。ここで最初から迷子になるのは勘弁、と急いであとを追う。




洗礼された雰囲気の、長い廊下を歩く。相当規模が大きいのだろう、分かれ道もたくさん。扉もたくさん。景色はほとんど変わらない。おまけに誰ともすれ違わない。人理修復が始まったばかりとは言っていたが、ここまで閑散としているとは。これは、馴染むまでに何度か遭難しても、最悪誰にも見つけてもらえないのではなかろーか。


「…………」


数歩前にいる案内役の¨エミヤ¨を一瞥する。召喚部屋を出てからずっとだんまりで、正直、案内とは?といった感じ。翌日探検するつもりだから詳しい説明はなくてもいいけど、一言もないっていうのは、ねえ。ここまで静かだと逆に気が乗って、ちょっかいの一つでもかけたくなる。




「ねえ、ねえ。士郎って呼んでもいい? ここでは¨エミヤ¨って呼ばれてるみたいだけどさ」
「…………」

「士郎。私と逢えて、どう? 状況が状況だからあれだけど、逢えたって事実だけなら、私はもちろん嬉しいよ」
「…………」

「あっ、でも! 一人だけ大きくなってるはズルいっていうか、いつからそんなに身長伸びたの」
「…………」

「カルデアに来たのは最近? もうマスターとは一緒に戦った?」
「…………」

「私、戦いのお手伝い上手くできると思う? どんなサーヴァントと相性がいいんだろ。マスターなら知ってるかなー」
「…………」

「……。士郎、サーヴァントなんだよね。魔力で分かるよ。なんで英霊になったの、とかはまだ訊かないほうがいい……かな」
「…………、…………」

「……他にも何人か喚ばれてるんだよね? 気が合う人、いた?」
「…………」

「これからたくさん召喚されてくるのかなあ。長い戦いになりそうだし、私たちも気を引き締めないとね」
「…………」

「――絶対に外の世界を取り戻そう。そのためなら、私も全力で戦うし、レベルが上がったら士郎の傍でお手伝いもさせてもらえるかも!」
「――――」


無言を貫く姿勢を崩さない背中に、諦めることなく語り続ける。なんだか、一人で人形に喋りかけてる子供みたいだ。怒ってる風でもないのに、この総スルーはなんなのだろう。これ以上この調子が変わらないなら、流石の私も気が落ち込むというもの。いい加減、反応の一つや二つくらい、くれてもいいんじゃないのと投げ掛けたくなったその瞬間、赤い後ろ姿がピタリと立ち止まった。「?」一拍遅れて、私も足を止める。――士郎、どうしたの?と。声をかける直前。「」こちらに振り向いた彼は、長い脚を踏み出して一気に距離を詰めてきた。
後ずさる隙もなく。両手で肩をいきなり掴まれた私は、籠った力の強さに呻いた。そのまま近くの壁に押し付けられて、小さな悲鳴が漏れる。いたい。力は弱められることなく、それどころか更にグッと指が食い込んできて、反射的に苦痛の声があがった。


「いっ、やめてっ……」


なに、なんで、と混乱する頭と、加減のない男の人の力に押さえ込まれてわき上がってくる恐怖。生理的な涙で視界が滲んで、士郎がどんな表情をしているか分からない。もしかして、もしかして、どこかで怒らせてしまった?でも、変化はなかったし、自分でも逆鱗に触れるような言葉を吐いたつもりはない。そもそも私の記憶の中の士郎は、問答無用の実力行使で相手を黙らせるような人物ではなく――幼いころの、感情のぶつけ合いになった喧嘩の時も絶対に私に手を上げたりはしなかった。
一ミリも叶わないと悟りながら精一杯の抵抗をすると、やっと肩へ加えられていた攻撃が収まる。


「前向きなのはいいが、軽く考えるな。君はここへ来るべき人間ではないことを常自覚しろ」
「……し、ろう」
「戦いに身を投じる――それが、どういうことか解るか」
「……」
が本来歩む道の中では、見るはずもなかったものを見ることになる、触れる必要もなかったものに触れることになる、知らなくてよかった痛みを知ることになる。失うものだってあるかもしれない……!」
「…………」
「オレが君に逢えて嬉しいか、 だと? そんなこと――」


私としては、ちゃんとした本心だった先ほどの意気込みは、彼にとっては楽観的に映ったのだろう。
ギリ、と強く歯を食い縛る音が聞こえる。今の訴えに、どれだけの葛藤が詰まっているのか、私は完全には理解できない。できないからこそ、言葉を紡ぐのをやめた。だって、私は知らない。戦うことを知らない。血を流しながら歩む人生を知らない。だから、知ったかぶりをするのは、あまりにもおこがましくて、閉口した。
瞬きをすると、目尻に溜まった涙が頬を伝うと同時に、朧気にしか映っていなかった士郎の輪郭が、くっきりと眼前に表れた。


「っ!、すまない。力加減を、間違えたか」
「……ううん。大丈夫」
「すまない、。すまない……」
「大丈夫だよ」


項垂れて謝罪を繰り返す士郎の背中に、腕をまわす。肩の痛みは、まだじんじんと残っているけど。暫くすれば消えると思えば、途端にどうでもよくなった。私の体を引き寄せて抱き締め返してきた士郎の背を、優しくぽんぽんと叩く。


「私、頑張れるから」


覚悟は決めてる、なんて格好いいことは言えないが、この事態に召集された一人として、私は私なりに闘う意思があることをしっかり伝える。まだまだ不安要素のほうが多いのは事実だが、一歩ずつでも経験を積んで、たとえ微力でもマスターたちの役に立てるように。喚ばれたからには、共に戦う人たちと一緒に前を向いている存在でいたい。


「…………そうか」
「そう。幼馴染みの前で無様は晒せないですし」
「オレか?」
「貴方以外、誰がいるの」
「ああ。そうだな」


どちらからともなく、ゆっくり体を離す。
士郎と身を寄せあったのなんて、いつぶりだろう。幼い頃に寒さを紛らわせるためにくっついた時ぶり? 当然、感触は面影すらなかったが――改めて意識すると、大きくなりすぎでは。距離が近いから余計だろうけど、頑張って見上げないとやっぱり目が合わない。ほんと、いつからこんなに急成長したんだか。冬木の町中を歩いてても、ここまで大きい人は滅多に見なかった。今帰ったら、背の高さだけでご近所さんの間で有名になれそう。多分、葛木先生より高いよね? 腕もムキムキだし、胸板も厚いし、私の知らないところで秘密の特訓でも重ねたんだろうか。五センチくらい分けてほしい。


「……何かね」
「べつに? 私もまた背を伸ばしてみよっかなって」
「……? 君、色々試して成功した例があったか? あと、概念礼装に身体的な成長は望めないぞ」
「うっ……! 」
「ああ――それで、今さらだが。君の名はなんという? という個人名ではなく、概念礼装として現界した君の名前は」


私の希望をきっぱりと切り捨てて、早々に話題をシフトする士郎。読めてた結果といえど容赦がない。ひどい。――でも、概念礼装としての名前ね。そういえば、来てから一度も名乗ってなかったっけ。


「ここでは¨そっち¨を名乗ったほうがいいの?」
「そうだな。カルデアではその方が分かりやすいだろう。できれば私のことも、他の者たちがいる前では¨エミヤ¨で通してほしい」
「わかった」


私という概念礼装。¨誰か¨が持つ糸に引っ張られるように喚ばれて、やってきた私。名前は簡単に、事実そのままだ。


「どこの世界に来ても、もしかしたら変わらないのかも」
「と、いうと?」

「『誰かの隣人』よ」