良い匂いがする。
廊下まで届く食欲を掻き立てる香りは、食堂から漂ってきているようだ。今日のメニューはなんだろう。当番のエミヤさんの作るメニューは全てが美味だ。私たち職員のあいだだけでなく、サーヴァント達からもとても評判が良いと聞く。
お腹も空腹を訴えて、小さくぐうぐうと鳴っている。朝からずっと液晶と睨めっこをしていたので体力こそ減っていないものの、お昼時になれば自然とお腹は減ってくる。
本格的に混んでくる前に済ませて、さっさと午後からの業務に取りかかりたかった、のだが…………。


「――で。キミさえよければ、ご一緒させてもらいたのだけど」
「……はい。大丈夫ですけど」
「ありがとう。どうも勝手が分からなくてね。助かるよ」


食堂に向かう途中の通路にて。
一人の男性に声をかけられた私は、戸惑いながら対応をしていた。
白を基調とした服装。ふわふわと跳ねる前髪、さらりと後ろに流れる長髪。穏やかなトーンの声に似合った優しげな目元と、柔らかな物腰。対面する相手に警戒心を抱かせる隙すら与えないような、見目麗しい青年。
この人はサーヴァントだ。つい先日、我がカルデア唯一のマスターである藤丸立香くんが召喚し、契約を交わした。丁度モニターをしていた私もその瞬間を画面越しに見ていたので、存在だけは知っていた。
もとよりこのカルデアには多くのサーヴァントが身を置いている。その人数も日増しに多くなっていき、一介の職員である私もこの環境に大分慣れてきてはいたが――。
いざ、こうして一対一で話しかけられると緊張する。どんな英霊であれ、やはり人間とは一線を画する存在。それぞれが独特の特別な雰囲気を持っているが、今私の目の前にいる人物――真名をマーリンさん、も無論例外ではなく、油断すれば私なんか簡単に惹き込まれてしまいそうな何かを纏っている。
できるだけ見つめ合わないように、声をかけてきた理由を聞いていると、カルデアに来たばかりで不自由があるらしく、簡単な案内を頼まれた。最低限の説明は立香くんや縁のある英霊たちから受けていたとは思うが、広い上に入り組んだカルデアを把握するのは時間がかかる。
これから仲間として共に戦っていく間柄だ。無下に断る理由もない、と流されるままにだが、頷いた。
午後の仕事は、まあ……一人で黙々とこなすつもりだったし、若干押してしまっても構わない。
まずは腹ごしらえのために一緒に食堂に行くことになったけど、マーリンさんも娯楽として「食」を嗜むのだろうか?


「この時間帯はごった返すだろうから、私は入口付近で待っていようか」
「わ、分かりました。できるだけ早く済ませるので」
「いいよ。ゆっくり味わってきなさい。私の方から頼んだんだ、キミが気を遣う必要はないさ」


優しく微笑むマーリンさん。とは言っても、待ち人がいれば気にせずにはいられない。食堂にどれくらい人がいるかなとか、列はできてるかな、なら何食べようかなとか思考を巡らせていると、ある一つの案が浮かんだ。


「あの、私じゃなくて、他に手の空いてる職員に頼んだほうがマーリンさんも待たなくてすむと思いますけど……」
「――――」
「あ、いえ! 案内役が嫌だとかそういう意味では、なくて、ですね」


思い付いたことをそのまま口に出してしまってから、少し焦って言葉を付け加える。マーリンさんは特に反応しなかったけど、遠回しに迷惑だと言ってる感じにならなくもないので、その意図がないことはハッキリと伝える。


「うん。なら、何も問題はないね」


にこりと。
全く意に介してない風に微笑すると、マーリンさんは「それじゃあ行こうか」と歩き出すと同時に、何故かこちらに距離を詰めきた。


「キミは毎日、この時間にここを通りかかるのかい?」


服が触れ合う。それだけでもかなり近いのでは?と感じていたが、それも束の間。次には、するりと背中に腕がまわされ、そのまま腰を抱かれる形になる。「――っ!?」反射的に一瞬体が硬直し、突然のことに心臓が跳ね上がる。歩を進めてる足は止めなかったので、不審がられこそしなかったものの、私の脳内は混乱を極める。
えっ、マーリンさんってもしや、そういうお方なの……?申し訳ないことに彼の素性についてはほんの少しの知識しかない。
――わざわざ本人に確認しないけど、これはもしかして、俗に言う¨ナンパ¨にあったのだろうか?
立場上、純粋に困ってるから頼られただけかと思い込んでいたが、よくよく考えれば他の職員をあてにする案をスルーされたのも、そして何より今恋人みたいな距離で密着されていることにせよ、それ以外の結論が出せない。
ナンパにあうこと自体は初めてではないけど、こんなに積極的なのは初めてだ。
どうしよう。どうしたものか。後で追及されるのも面倒だし、とりあえず同僚とはすれ違いませんように。


「そうですね。大体、今くらいの時間に」
「そうか。覚えておくよ。――ところで、順番がおかしくなってしまったけど、キミの名前は?」
です」
か。良い名前だ」


爽やかに澄んだ青空みたいな声に、自分の名前を口にされると、勝手に心臓が速度をあげる。
――いけない。毒、と表現するのは些か間違ってるかもしれないが、その実、身にじわじわと染み入るみたいに鼓膜に残る声は、こちらの気持ちを惑わせる薬物のようだ。
私の名前を何度か呟いたあとも、マーリンさんは次々と質問を投げてくる。「いつもは何を食べてるんだい?」「カルデアに来て長いのかい?」「私のマスター君とは顔見知りなのかな?」何気ない疑問に、私も世間話に付き合う感覚で答えていく。その間もずっと触れられてる腰に時折意識がいきつつも、沈黙が訪れる暇もなく会話を続けていると、


「――の部屋はどこにあるんだい?」


――と。唐突に、酷く個人的な質問が飛んできた。素直に教えるべきなのか、上手くはぐらかして躱すべきなのか悩んで、「あー……」という無意味な声が出る。
遠慮のないナンパ男に慈悲はいらないと、力強く主張していた友人を思い出す。確かにね。どちらかといえば私もその意見には同意だ。けど、今回は、ただの街中で見知らない他人に話しかけられるのとは訳が違う。できるだけ波を立てずに切り抜けたいところだけど……。
どうすれば? このまま、『あー』だの『えー』だので時間を稼ぐのはそろそろ苦しいぞ――――と。
俯きながら返答に迷っていた、そのとき。


さん?」


聞き慣れた声に名前を呼ばれて、前を見る。
そこには、廊下の向こう側から歩いてきただろうマシュちゃん――と、その肩に乗っているフォウくん。
「マシュちゃん」強制的に思考が断ち切れ、お互いに軽く会釈をする。


「こんにちは。今から昼食……ですか?」
「こんにちはマシュちゃん。そうよ」
「…………、…………えーと、」


マシュちゃんの視線が、私とマーリンさんを交互に見る。何か尋ねたいと言わんばかりの眼鏡越しの瞳に、私はただだだ言葉に詰まってしまう。――ああ、よりにもよって。大人の駆け引きじみた応酬をこの娘の前ではしたくないのだけど……。沈黙が痛い。腰に手がまわされてる以上、言い逃れもできないので、どう切り出すかと模索しつつ、チラ、とマーリンさんの顔を見やる。
すると、意外なことに今しがたまで余裕たっぷりだったのが嘘みたいに、明らかに動揺を滲ませていた。

――瞬間。
跳躍。甲高い鳴き声をあげて、マシュちゃんの肩を踏み台に天高く飛び上がったフォウくんが、くるりと空中で体勢を変える。落下を始めると同時に後ろ足を突き出し、弾丸のごとき勢いで、目下のターゲット目掛けて渾身の一撃を叩き込んだ。

「ごふっ!?」と悲鳴にもならない呻き声をあげたターゲット――もといマーリンさんは、手負いの兵士みたいに自身の体を庇うと、ふらふらと壁際にもたれ掛かる。
必然的に私から離れたマーリンさんを、フォウくんは鋭い眼光で威嚇する。……ええと。今のは?何が起こったの?もしかして、助けられた?


「フ、フォウさん……! 今日は特に手加減無しでしたね!?」


呆然と惨事を観察しまった私と同様に、一部始終を見届けていたマシュちゃんがフォウくんに駆け寄る。
踞るマーリンさんに心配そうな視線を送るマシュちゃんだけど、口振りからして今のような光景を見たのは初めてではないのだろう。
一人どうしていいか分からず、とりあえずマーリンさんの無事を確認するために声をかける。「だ、大丈夫です……?」が、どうやら私のおどおどとした呼び掛けは耳に届いていないらしく、フォウくんへの恨み節を吐きながら覚束ない足取りで立ち上がるマーリンさん。
一方のフォウくんも、マシュちゃんに抱き締められたまま、尚もマーリンさんへの露骨な嫌悪感を振り撒いている。こんなに過激な姿を見たのは初めてだけど、どこかで私の知らない因縁があったりするの、かな……。


「……」


とりあえず。…… どうしろと?
混沌とする場に付いていくことを諦めた私は、黙って事の成り行きを見守ることにした。
フォウくんと同じ目線で争うマーリンさんの姿を見ながら、ここではない食堂に想いを馳せる。
……エミヤさんの料理、まだ残ってるかなあ。