「……よしっ」
シャーペンを走らせていた手をとめる。ページいっぱいに報告と記録を書き込んだ日誌に、今一度目を通してから閉じる。
これで今日の日直としての仕事は終わった。あとは日誌を職員室にいる担任に届けて帰るだけだ。
季節は夏真っ盛り。冬場ならすでに夕焼けに照らされているはずの外も、まだまだ陽は高く、青空が広がっている。運動場で声をあげながら部活に励む生徒たちも、この時期は大変そうだ。
特別打ち込めるものがあるというのは羨ましい。何かに深く入れ込んでいない自分には無縁に思える世界である。
要は私は帰宅部だ。このあとの時間は自由。友達は用事があるとかで先に帰ってしまったし、今日は一人でのんびり下校することにしよう。気になってるカフェを覗いてみてもいいし、新発売のお菓子を買いにコンビニに寄ってみてもいいかもしれない。
帰り支度をしながら、どういうルートで帰路につこうかと考えていると、何やらドタドタと慌ただしく階段を上ってくる足音が聞こえた。
廊下走るべからず、という恐らく全国の学校共通のルールに、真正面から喧嘩を売るような速度で疾走してきた人物は、勢いよく私のいる教室のドアを開け放った。
「――!!」
一体何事かと、思わず身構える。
荒い呼吸を携えて中に入ってきたのは、一人の男子生徒――クラスメートの藤丸立香くんだった。息を整える間もなく一直線に自分の机に向かうと、何か捜し物をするように――いや、事実、捜している物があるのだろう。必死に机の中身を漁り出した彼を、ただ呆然と眺めていると、
「――――あ」
不意に私の存在に気づいた藤丸くんが、短い声を出して固まった。彼を見ていた私とは、もちろん視線が合う。「……」「……」お互い、どう切り出すべきかが掴めず、無言で見つめ合うこと約三秒。先に口を開いたのは藤丸くんのほうだった。呆気にとられている私に対し、場の気まずさを払拭するための笑顔をつくって、
「ちょ、ちょっと忘れ物しちゃって。取りに戻ったんだ」
「そ、そっか」
「うん。びっくりさせちゃったならごめん、さん」
「ううん。大丈夫だよ」
言葉を選びながら無難な会話を交わす。クラスメートといえど、普段あまり交流もないので、意図しない形で二人きりになると少し緊張してしまう。いつもは数十人中の一人、としか捉えてない相手だから、どこまで馴れ馴れしくしていいかも分からず手探り状態だ。見知らない他人というわけではなく、さりとて親しい仲でもない。おまけに異性となると妙な距離感がある。
藤丸くんも私も、クラスでの立ち位置は似ている。活動的なグループにいるわけではないが、一人を好むわけでもない。仲のいい2、3人と程々の距離を保ちながら、たまに賑やかな面子に巻き込まれる。だから、何か行事があると、自然な流れで短いやり取りをすることはあるのだけど……言ってしまえばそれだけである。
日常的に意識したことはないので、特段強い印象も抱いてないのが正直なところ。多分、向こうも同じ感想だろう。
ただ、一つだけ挙げるとするなら。一度、席替えで藤丸くんの隣になったとき――これまで一番近い距離で彼を見る機会があったとき。
退屈な授業中で、ずっと黒板を見ているのも飽きてきて、なんとなく藤丸くんの横顔を盗み見たことがある。動機はきっと『こんな退屈なの、みんなちゃんと聞いてるのかな』とか、そんな些細な疑問だった気がする。既に集中力が切れていた私とは反対に、先生の話を聞きながらノートをとっている真面目な顔を見て――ああ、しっかり見ると端整な輪郭をしているなとか、瞳の色が綺麗だなとか、真剣な表情は様になるなとか、ぼんやりと思った事はある。別にそれで見方が変わったわけではないが、なんとなく記憶に残っている。
「ほら、明日提出の、あのプリントのことすっかり忘れててさ」
「――ああ、あれ。思ってたより難しかったやつ」
「えっ」
「今からやるの……? 大変だと思うけど」
「えええー…………」
藤丸くんの言う忘れ物とやらには、すぐに思いあたった。夏休みを控えた目前に、この前最後に出された課題だ。案外やっかいだったなあれ――と他人事みたいに思い出していると、漁っていた机から目当ての物を発掘した藤丸くんが、紙面と睨めっこを始める。落胆と後悔と焦りが混ざったような複雑な表情をして「間に合うか……?これ」と弱々しい独り言を零して、肩を落とす。
「…………」
単純な事実として、これは彼の自業自得だ。
担当教師が口を酸っぱくして言っていたのに、すっかり忘れてしまっていたのだから。だから別に、同情することではないし、私には関係のないこと。今晩は夜更かし確定な藤丸くんとは違って、私はこのままいつも通りに帰って、いつも通り明日に備えるだけだ。
「――藤丸くん」
だけだ、けど。
何の気の迷いか。目の前で落ち込むクラスメートが見過ごせなかったのか。
「よかったら、手伝おうか? それ」
「え?」
「日直の用事も終わったし、私はこのあと予定もないから」
「えっ、ああ、でも……」
私の突然の申し出に驚いた藤丸くんは、言葉を彷徨わせて悩む。――しかし、それも少しのあいだで。私の目の前までツカツカとやってくると「お願いします!」と勢いのある口調で、両手を合わせると同時に頭を下げてきた。
なんとなく見過ごせなくて、何気なく話を振ったわけだけど――真剣に頼まれると、手伝う私にも手を抜くという道は与えられない。「うん。じゃあ、私は一旦職員室に日誌を届けに行ってくるから。用意してて」決まったなら話は早いとばかりにそう告げて、私は日誌を片手に教室をあとにする。
職員室から戻ると、私の机に隣の机をくっつけてその席に座る藤丸くんがいた。「今だけ借りることにしたんだ」と、今ここにはいない本来の机の主に代わって。既に筆記用具や教科書が置かれて準備万端なその横に、私も腰を下ろす。
「進められるところまで進めよっか」
「俺これあんまり得意じゃないから、その……手助けお願い」
「もちろん。そのために声かけたんだし」
この時間で全部終わるかどうかは難しいところだけど、科目は得意な方の分野だ。アドバイスくらいなら、詰まらずにできる。そもそも、自分はすでに一回終わらせている課題。――なんなら、そのまま答えを彼に教えることもできるが、それは私の本意ではないうえに、藤丸くんもきっと望んではいないことだ。宿題の面倒くささを知る学生なら、できるだけ楽な方法に縋りたいと考えるのは普通でも――いま私の隣でうんうんと唸ってる男子は、自分の力でやってみるという手段を捨てはしないだろう。彼の多くを知ってるわけではないが、なんとなく本質は読み取れる。だからこそ、ちょっと手を貸したいと思ったのだ。……きっと。
「ごめん。ここがどうしても……」
問題文と教科書を行き来する視線。ちょくちょく私にかけられる声。静かな教室に、短いやり取りとペンが走る音だけが響く。普段、何十人といるクラスメートに囲まれている場所なだけあって、不思議な感覚に陥る。男子とたまたま放課後に二人きり、と聞くと一部の層は盛り上がってくれそうだけど、そんな桃色の空気が流れる気配はない。あえて言うなら、だいぶ距離が近くて、いつもより意識せざるを得ないという部分だけだ。正面で向き合うよりは教えやすいから助かる位置なものの、たまに至近距離で視線が合うのが、心臓によろしくない事は確かだ。
威勢のいい運動部の掛け声と顧問の叱咤激励の叫び声が、窓の外で暑苦しくハーモニーを奏でている。冷房はついていないが、心地よい風が時折頬を掠めるので、過ごしにくいこともなく穏やかに時間が過ぎていく。
一時間以上は経っただろうか。完全下校時刻を知らせる放送が流れて、私たちはハッとして黒板の上の時計を見た。いつの間にか教室に夕日が侵入してきている事にも気づき、揃って帰り支度を整え始める。
「あともうちょっとで終わりだね」
「本当に助かった! ありがとう、さん」
「どういたしまして。帰ったらラストスパート頑張ってね」
「ここまで手伝ってもらったんだし、何がなんでも間に合わせるよ」
「うん、応援してる」
進捗はとても順調だった。全部は終わらせられなかったものの、藤丸くんの飲み込みが早かったので、かなりハイスピードで進んだほうだ。
机を元の位置に戻して、広げていたものを鞄にしまう藤丸くん。すでに帰る準備が終わっていた私は、なんとなくその様子をチラと見て――彼の鞄から出ていた一枚の紙に目が留まった。
それは、見覚えがあるものだった。
確か、駅前で配られていたチラシだ。私も最近もらってみたけど、馴染みがない横文字の単語がいくつも書かれていて、あまり興味がそそられなかったのを覚えている。何かを募集している……みたいな文言だった気がするけど、途中まで軽く目を通して捨ててしまった。――しかし、このチラシがあるということは、もしかしたら藤丸くんは一度駅に着いてから学校に戻ってきたんだろうか。
「途中まで一緒に帰らない? さん、駅まで一緒だったよね」
「あっ、うん」
短時間でいつもの通学路を往復するのはしんどそうだな、とぼんやりと考えていたら、藤丸くんからのお誘いがかかった。
思わず反射的に返事をしてしまったけど、丁度いい。もうすぐ日も暮れるから寄り道はできないし、一人でトボトボ帰るよりはずっと楽しそうで――何より、藤丸くんと並んで帰るのは新鮮だ。
見回りの先生が来る前に教室を出る。
校舎に残っている生徒はいなくて、外からの喧騒もすっかり止んでいた。
二人で隣り合って昇降口へ向かう。いつもと違う感覚に、少しだけドキドキした。
窓から覗く夕焼けは、赤く、紅く、街を染め上げている。一瞬立ち止まって、なんとなしにその光景を眺めた。燃えるような世界の中で、藤丸くんの姿を見失わないように、彼の後を追う。