寝返りを打つと同時に、閉じた視界に光を受けた。
眉間に皺を寄せながら、目蓋をゆっくり開ける。僅かに開いた扉から漏れる朝陽が、薄暗い土蔵の中に浸入してきていた。この時期のツンと肌を刺す気候。知覚した瞬間、ぎゅっと体を丸めたくなる冷気。――もう朝か、と心の中で呟いて、まだ覚醒しきらない頭のまま体を起こす。――――と。
「おはよー」
「っ!?」
すぐ傍で前触れなく聞こえてきた声に、反射的に肩が跳ねた。静かな空間で、より際立つソプラノボイス。穏やかな目覚めから一転、ドクドクと速度を速める心臓に無意識に手を当てながら声の発生源に振り返ると、そこには。
「……なんだよ、か」
「『なんだよ』とは何? お寝坊さんをわざわざ起こしに来た幼馴染みに感謝の言葉はないわけ? ……もう」
見慣れた顔が不満そうに歪む。「桜じゃなくて悪かったねー」とぶつくさ零しつつ、ムっとしたまま俺に制服を投げて寄越すのは、近所に住む幼馴染みの。
同い年で同じ学校に通う女子生徒。付き合いはかれこれ十年近い。出会った頃はまだ色々と落ち着いていない時期で、明確なきっかけこそ忘れてしまったが――俺がこの屋敷にやってきて間もなく彼女は目の前に現れた。無論、突然降ってきたとかではなく、周辺住民として自然な形で顔を合わせた。それ以後、年の近い遊び相手が欲しかったのか、
は頻繁にうちを訪ねてくるようになった。貴重な遊び相手をわざわざ無下にする必要もない、と切嗣も藤ねえもを歓迎し出してから、トントンと月日は流れていつの間にやら。自由にうちに出入りはするし、朝飯夕飯も一緒に食べるほど身近な間柄になった。
「朝ごはんできてるよ」
「えっ嘘だろ、そんな時間か」
「私も手伝ったから配膳も済んでるし、ほら、行こ!」
重い土蔵の扉を開け放って、着替えを終えた俺の手を引く。「……悪い。任せっきりにして」と謝罪を口にする俺の声も聞こえていないのか、晴れた青空の下に出ると、いい天気だねーと屈託のない満面の笑顔を向けてきた。今さっきまで口を尖らせていたのが嘘みたいに、ころころと表情が変わるやつだ。
良く言えば明朗闊達、天真爛漫。悪く言えば気分屋で落ち着きがない。一緒にいて飽きることはないが、相手をするとなると何分手がかかる。見事に誰かさんの影響を受けていないとは言い切れない成長をしてくれたので、このまま付き合っていけば、俺の気力が底をつくのもそう遠い未来の話ではないだろう。――もっとも、姉のようなと表現するには何でも笑顔でひょいと抱えられるほど強くはないし、かといって妹として捉えるほど庇護欲を擽る存在でもない。等身大の、同い年の女の子。年上もなく、年下もなく。は俺にとって、いつだって同じ目線の先にいる人物だ。
「士郎はもうちょっとお寝坊さんでもいいって」
「は?」
「桜が言ってたよー。毎朝ホント律儀だよね。朝練もないのに」
「何を今更。桜やに朝支度を任せて俺が眠りこけてたら、家主として面目ないだろ」
「うん。言うと思った」
「? 分かってるならわざわざ突っ込むなよな」
カラカラと笑うの真意が汲み取れず、疑問符を浮かべることしかできない。会話を振るなら、成り立たせるつもりで話しかけてほしい。抗議してもの性格上、適当に受け流されるのは目に見えてるので追及はしない。
「でも、あれだよ? ただでさえ夜遅いんだから、しっかり睡眠とらないと背伸びないよ。成長期なのに」
「身長は関係ないだろ」
「そうかなあ?」
次は何を言い出すかと思えば、よりにもよって俺のさりげないコンプレックスに言及してきた。ほっとけと叫びたい気持ちを、纏う雰囲気に滲ませながら屋敷へ歩を進める。隣り合うは「そのうち私が士郎を追い越しちゃうかも」と何故か胸を張っていやがる。お前も平均より少し下だろ。
「なんてったって、私には秘策があるからね」
「なんだよ、秘策って」
「昨日の帰りに牛乳買ってきたから、今朝から毎日飲むの」
フフンと得意気に人差し指を立てる。秘策と銘打っておきながら簡単に明かす辺り、やっぱりどこか抜けている。――確か、昨日は放課後に友達と新都に出て、そのまま外で夕飯を済ませてから、うちに寄って来た。
……そういえば、丁度俺が風呂へ入りに居間を出ていこうとした際に、冷蔵庫の前で何やらごそごそとしていた記憶。俺が風呂から上がった時にはもう帰っていたので、結局何も聞けず仕舞いだったが、もしかして。
「その牛乳、うちの冷蔵庫に突っ込んであるんじゃないだろうな」
「えっ、そうだよ。だって朝はここで食べるし」
「……、……。ちなみに訊くけど、どれを買ってきた?」
「? どれって、いつもの長い、大きいやつ」
「1リットルの?」
「そうそう」
「一本?」
「一応、三本」
「お前、スペースのこと何も考えてないだろ!」
作り置きおかずが並ぶ中に横たわる、長い牛乳パックを想像する。ギュウギュウとまではいかないが、消費しきるまで、それなりに幅を取ることだろう。毎日どれくらいのペースで飲んでいくかは知らないが、三日坊主にだけはならないように釘を刺さねば。うちの朝食の定番は和食なので、前後に牛乳を飲む習慣がある人はいない。賞味期限が近づいたら、嫌でもには毎日パン食を強制させよう。
あと、牛乳を飲んだら背が伸びるって都市伝説くさいぞ。
「まあまあ。欲しいなら士郎にも分けてあげるからねー」
「い ら な い。そもそも朝飯に合わない」
余計な気遣いをキッパリ跳ね返す。どうかお一人で頑張ってほしい。効果が実証されれば付き合わないこともないけど、現時点で朝の日課を増やすのは控えたい。本人はやる気に満ちてるみたいだけど、消費が滞った時に備えて牛乳を使った献立を今から考えておくべきか……。
廊下を歩きながら、どこか楽しそうに数歩前を行くの背中を眺める。思案顔の俺とは反対に、居間へ着くなり、藤ねえと威勢のいい挨拶を交わす。
開いた戸の先から、上品な朝餉の匂いが漂ってきた。