呆然と頭上を見上げる。私も友達も、持てる手段は尽くした。思いつく限りの方法で必死に頑張ったが、木に引っかかったボールは取れそうにない。

小学校の授業が終わった放課後、クラスの仲が良い友達二人を近所の公園に連れてきて、一緒にボール遊びをしていた時だ。思いの外勢いよく飛んだボールが、木の枝に綺麗に挟まって落ちてこなくなった。周りには声をかけられる大人もいなくて、取り戻すには自分達でなんとか頑張るしかなく。けれど、女子小学生の背丈ではジャンプしても届かない高さ。長い木の枝で突っついたりもしたが効果なし。私含め木登りができる子もおらず、挑戦はしてみたものの皮膚が木肌に擦れてすぐに断念した。あとはずっと木の上のボールを眺めながら、「どうする?」「どうしよ?」なんて言い合うことしかできなくて。遊び道具を見捨てるのが惜しいから、諦められもしないまま――ただ時間だけが過ぎていった。

夕陽も濃くなり、そろそろ家にも帰らないといけない時間帯。渋々断念して、木の側から離れようとした直前のことだった。「どうしたの」と私たちにかけられた声。驚いて振り向くと、そこには男の子が一人。明るい色の髪をした、同じ学校の同い年の男子生徒だった。通学路や教室の付近でたまに目にする姿だが、このときはまだ名前も知らなくて――。自己紹介という空気でもなかったため、ただ、尋ねられた通りに事情だけを話した。すると男の子は、それを聞くや否や身軽な動作で木に登ったかと思うと、ボールが引っ掛かってる位置にあっという間にたどり着いて、「これ?」と確認してからボールを落としてくれた。下りる際も、特に苦もない様子で地面に着地すると、「じゃあ」と一言告げて、そのまま公園の外へ駆け去っていった。私たちは別れの挨拶とお礼を伝える間もなく。手助けをするためだけに現れて消えていく男の子の後ろ姿を、ぽかんと眺めて見送った。

その日から先の私は、実にもやもやした日常を送ることになる。年齢的にも丁度、親や先生から『だれかになにかをしてもらったら、しっかりおれいをいいましょう』と十二分に教え込まれる時期である。できるだけ早くお礼は伝えるべきだと思い、翌日さっそく同じ学年の廊下をうろうろしながら、あの男の子の姿を捜した。教室も遠くなかったので簡単に見つけることはできたが――問題はそのあと。
普段面識もない他のクラスの、まともに会話もしてない男の子に話しかけるのが、想像以上に難易度が高かったことだ。もちろん、私の中で。小学生のあいだでは些細な出来事が、冷やかしの対象になる。私が彼を呼び出すなり引き止めるなりして、話し込んでいるところを誰かに見られたらと思うと、なかなか一歩が踏み出せなかった。万が一噂がたてられて、相手がそれに巻き込まれてしまったら申し訳ないし。通学路でも周りに生徒がたくさんいるから、発見しても呼び止められずに、ズルズルと日にちだけが重なっていった。そう、この時の私はまだまだシャイで、周囲の視線を気にしてばかりで機会を逃していたのだ。

そんな日々が続く中で、あの男の子の名前が¨衛宮士郎¨だという事を人伝てで知った。気づけばあの公園での出会いから数週間が経っていて、時間が流れれば流れるほど、今度は今さらすぎて不審がられないか?と悩んで、より声をかけづらい状況になっていた。もう相手は覚えてないかもしれないと思いつつ、まだ隙を探っていた私に、ある日チャンスが訪れる。
下校中の通学路。衛宮くんが一人で歩いているところを見かけた私は、咄嗟に身を潜めて辺りに誰もいないことを確認すると、脳内でシミュレーションを始めた。
最初の一声は……こんにちは? いや、なんか堅苦しい。でも、おはようもこんばんはも変だし。『衛宮くん!』はいきなり馴れ馴れしいかなあ……。『誰?』って言われたらどうしよう……。一から説明するのも恥ずかしい。だいぶ前のことになってしまったし、変な奴って思われたら……。
うんうんと考え込んでいるうちに、衛宮くんはどんどん離れていく。このまま家に着かれたら、この好機が台無しである。彼が曲がり角に消えた瞬間、焦りが最高潮に達した私は、もう何でもいいや!と慌てて追いかけ、なるべく自然を装って衛宮くんの目の前に出ていった。

そこから先のことは、正直あまり覚えていない。正確には、覚えていたくないともいう。恥ずかしながら緊張でいっぱいになった私は、ずっと用意してたはずの言葉を引っ込めてしまい――話しかけた手前、さっさとその場を去ることはできず、家が近い同級生としての何気ない日常会話をひたすら振り続けた。幸い衛宮くんは、その共通点のお陰か私を訝しむこともなく、普通に話を合わせてくれたが――私は別れ時が分からず、衛宮くんの家の前まで隣り合って付いていってしまった。立派な衛宮邸はお山のずっと上にあり、ここまで来ると周りに他の家は少なくなってくる。ゆえに、『衛宮くんの家の前が普段の通り道なんだー』と誤魔化すのはすごく無理があった。実際、通ったこともないし。
結局、一番大事なことは別れ際に捲し立てるようにして告げ、私は脱兎のごとく走り去ったのであった。

その後は、絶対に不審者になってしまったと落ち込んでいた私だが、親近感を覚えてくれた衛宮くんの方から学校で声をかけてくれるようになり、次第に顔を合わせることが多くなった。交流が増えると、新しい友達ができたみたいで毎日がちょっと楽しくなる。気分がよくなった私は、衛宮邸を訪ねに行ったりして、そこからまた距離が縮まった。和服姿の優しそうなおじさんや、行くといつも居る元気なお姉ちゃんとも仲良くなり、中学、高校、と関係は継続され――――現在に至る。




「…………」


商店街からの帰り道。買い物を済ませ、右手にスーパーの袋を提げた私は、自然とそんな懐かしい回想をしてしまう場面に出くわしていた。昔よく遊んでいた公園。士郎と知り合うきっかけにもなった場所。そこの敷地内の一本の木の下に、小さな男の子が三人いた。みんな同じように上を見ていたので視線を辿ると、高い枝に引っ掛かっているボールが目に入った。
あの時と今では立場が逆だけど、構図は一緒だ。困ってる三人と、偶然そこに居合わせた一人。昔は助けられた側だった私だが、今度は。


「ボール、取れないの?」


公園に入って男の子たちに声をかける。一瞬身構えられたが、私が膝を折って話を聴く体勢になると、すぐに警戒を解いて事情を説明してくれた。¨遊んでいたら飛んでいって引っ掛かってしまった¨ ¨でも自分たちでは届かなかった¨――不安げな表情で事の経緯を語ると、男の子たちはじっと私を見つめてくる。物言いたげな眼差しから、もはや、わざわざ直接心意を引き出すこともない。「よし。ちょっと待ってね」私はスーパーの袋を件の木の根元に置くと、まっすぐ上のボールが引っかかった箇所を見据える。あの頃からだいぶ経ったのだ。高校生になって単純に背丈も伸びたし、頑張れば十分届く高さなはず。


「――――」


下は制服のスカートだけど、まあ、仕方ない。同級生の男子に覗かれるわけじゃないしと割りきって、できるだけ太い枝に腕と足をかけながら、感覚だけで登っていく。ざらざらとした木の表面は握り込むと痛いけど、ここは我慢。見守ってくれている男の子たちのためにも、弱音は吐かない。もっと私の背が高かったら、地上で精一杯手を伸ばした状態でジャンプすればギリギリ届くかもしれない位置だったが――生憎私の身長は、平均にも追い付いていないのである。


「よっ……と」


登った枝を踏み台にして、もう一つ上の枝へ。ボールはもう、すぐ近く。慎重に腰を上げて、頭上の枝と枝に挟まったボールに触れる。指先が当たった感触を確かめると、そのまま手で払って下へ落とす。三人が声をあげて、バウンドするそれを追い駆けていく様子を眺め――さて、下りようかと真下に目線をやった。思いの外地面と距離があって、思わず息をのむ。……結構こわいな、これ。士郎はよくやったよね、ほんと……。
意を決して飛び下りてもいいが、着地の際の反動が想像できないので、ゆっくり元来たルートを戻る。
慌てず、踏み場を確保して。登るときはともかく、下りは落ちてしまった際の落下地点が常に見えているので、怖さは倍増。なるべく嫌な結末は考えないようにして、一番低い枝に移動する。かなり動作は遅いが、実質初めての木登りで、我ながらよくやった方だと思う。ふう、と息を吐いてあと一息。もう少しで――もう足が地面に付くという直前。「っ!?」あろうことか最後の一歩を踏み外して、膝を木肌に思いきり擦ってしまった。(最後の最後で……)痛みをこらえて下りきると、男の子たちが寄ってきて元気よくお礼を言ってくれる。私は何でもない風に笑顔で返答すると、根元に置いていたスーパーの袋で、血が滲む傷を隠した。自分から手を貸しておいて、いらぬ心配はかけたくない。

戻ってきたボールで遊び始める三人に怪しまれないよう、公園をあとにする。スクール鞄には絆創膏を入れていたが、今は手元になかった。痛み始める膝で、坂の上の衛宮邸へ歩き出す。




「ただいまー士郎ー」
「おかえり、


玄関をあがって居間に入ると、台所に立っていた士郎が出迎えてくれる。もうすぐ夕飯時とあって、しっかりエプロンを着用している。準備は万全のようだ。


「これ、頼まれてたやつね」
「ああ、サンキュ。――ってお前、怪我!!」


スーパーの袋を受け取った士郎が、私の脚の惨状に気がついて声をあげる。……まあ、どうやっても隠せないよね。拭くものも何も持ってなかったので、膝から下に垂れた血は脚を真っ赤にしていた。足の裏にまでは到達していないので床は無事だが、帰ってくるまで放置した傷は大怪我のあとみたいに見える。痛みは、まだ、じわじわと。でも唸るほどの激痛でもないので、このあと自分で手当てをしようかと思っていたのだけど。


「どうしたんだよこんな傷!」
「え…………っと、転んだ」
「随分派手にやったな……。とりあえず、そこ座れって」


驚きながら、エプロンを乱暴に外して救急箱を取りに行く士郎。


「えっ、いいよ! 自分でする!」
「ばか。そんな血塗れで放っとけるか」


料理を始める時間が、私のせいで延びるのは悪いので断ろうとするも、士郎は「いいから」と手際よく手当ての準備を始める。頑な口調に負けて、私はその様子を黙って見ることしかできなくなる。なんとなく、木登りでできたとは言いにくくて嘘をついてしまった傷に、消毒液がかかる。瞬間的に鋭い痛みが走るが、口を噤んで耐えた。


「…………大丈夫だって」


あまりに真剣に、士郎が傷と向き合っているので、ついそんな一言が漏れた。心配してくれる気持ちを蔑ろにしたいわけではなく、単なる擦り傷だからたいしたことはないと言いたかった。しかし、士郎は「いや、」と私の膝を見ながら口を開くと、


に傷があったら、俺が安心できない」


テキパキと手を進めつつ、そう零した。


「……。その、実はこの傷、転んだんじゃなくて……。なんていうか、困ってた人がいたから」
「誰かに、なんか頼まれたのか?」
「ううん。私がやりたいからやったの。その時にちょっとミスって……」
「そっか。なら、いいや。――いや、よくはない……けど。……うん」
「?」


ティッシュで綺麗に血を拭き取り、ガーゼをテープで固定して、手当ては完了。使った道具を慣れた手つきで元の位置に仕舞っていく士郎だけど、会話の途中で歯切れが悪くなった。一体何を言いたいのかと、私が続く言葉を待っていると、真っ直ぐな視線がこちらを向く。


から手を貸したんだったら、俺はそれ自体はどうこう言わない。……怪我には気を付けてほしい、だけで」
「うん。心配かけてごめんね」
「ん。――でも、もしが、自分から望んでないことをやらされて、危険な目に遭いそうなら、俺は……」


表情は変わらないまま、物思いに沈むみたいに目が伏せられていく。そうなった時を想像でもしているのか。落とされた声は沈んでいた。


「もちろん、嫌だし……」
「うん」
「……怒ると思う」
「…………」


今、士郎の頭の中で私がどんな命知らずなことをしているのか分からないが、似たようなことなら私だって貴方に言いたい。底抜けのお人好しで、大抵のことは二つ返事で引き受けて、損な役回りを自ら担いながら、自分のことは二の次で。危ないことでも、懇願されたら代わっちゃいそうなのは、私のほうじゃなくて――。

近くに置いていたスーパーの袋の中で、バランスを崩した野菜が床へ倒れた。ガサガサッと静寂を切り裂く物音に、私たちの意識が奪われる。


「そうだ、夕飯」
「もうすぐ、藤ねえちゃんと桜も帰ってくるね」
「急いで準備する」


抱えた救急箱を定位置に戻すと、床に転がった野菜を回収して台所に入っていく士郎。その、いつもの光景をぼんやり眺めそうになった私は――ハッとして、エプロンの紐を結ぶ後ろ姿に声を投げた。忘れないように、後悔しないように、大事なお礼の言葉を。


「士郎っ」
「ん?」
「ありがとう。手当て」
「ああ、どういたしまして」