隣には知らない少女がいた。
白いシャツに、赤いスカーフ、赤いスカート。きっちりと揃えられた長くて綺麗な茶髪。
上品な、良家のお嬢様といった雰囲気を纏ったその十歳前後の少女は、私の存在に気付くなり、ゆっくりと首を動かした。
「……」
「……」
当然、少女のことを見つめていた私とは視線が合う。
幼い外見には似合わない大人びた表情。落着き払った態度。
なんだか見覚えがあるような気がするのだけど、私の記憶の中にはそれと一致するものがない。
というか、記憶そのものがない。
人伝てに耳にしてやってきた展覧会。絵画に強い興味がない私が、気まぐれでやってきた美術館。
なんとなく作品を鑑賞して、なんとなく館内をブラついて。
ああ退屈だな来なきゃよかった、なんて思い始めた時だっけ。
壁一面を惜しげもなく使って飾られた、あの絵と出会ったのは。
「……」
少女から目線を外して、チラと背後にあるそれを見やる。
最初に見つけた時と何一つ変わらず、『絶望の世界』とでも付きそうなくらい毒々しい色彩で描かれている、それ。
初めてこれと対面したときのことはよく憶えている。
急に不安になって、急に嫌な予感がして…………でも、そこから先が思い出せない。
だから、なんで今こんな状況になっているかも分からない。
なんで私の隣に知らない女の子がいるのか。
なんで二人して並んでこの絵の前に立っているのか。
なんで展覧会にやってきている人たちの声がしてるのに、この絵の周りには私と女の子しかいないのか。
こうなった経緯が掴めない。
まるで、記憶の一部分が抜き取られたみたいに。
あいだにあったことが無かったことになって、最初と今が強引に繋ぎ合わされたみたいに。
何かを忘れてしまってるようで、けど、何も思い出せない。
必死に時間を遡ってみても、引っかかるものは、一つもなくて。
「えっと……貴方は一人で来たの?」
空気を捕まえるように無意味な思考だと判断した私は、再び女の子のほうを向いて、何気ない話題を振る。
無言で場を立ち去るのも気が引けたし、女の子もここから離れようとしないので、とりあえず無難な質問をしてみた。
「……」
ぶんぶんと。
四往復ほど左右に首を振る女の子。
…………そりゃ、まあ、だよね。
いくら雰囲気が大人っぽいっていっても、年齢はまだ小学生くらいなんだし。
「じゃあお父さんとお母さんと……家族と来たの?」
こくり。
質問を変えると、今度は縦に頷いた。相変わらず顔は無表情のまま。
「お母さんたちがいる場所、分かる?」
ぶんぶん。
えっ迷子?
「……なら、一緒に絵観ながら探してみる?」
こくり。
…………なんでこんなに冷静なの。
頬が微塵も動かない上に無口なので、なんだか威圧されてる感じがする。
本人にその気はないのだろうけど、こちらとしては正直かなり接しにくい。
騒がしくて言うことを聞いてくれない子とは逆の意味で対応が難しいその女の子は、私を見上げると、言葉の実行を促す。
服の裾をくいくいと引っ張ってきて、
「じゃ、じゃあ行こっか!」
×××
懐かしいな、と思った。
作品を眺める人々の姿と、色んな声が入り混じって聞こえてくる風景と。
自分でもなぜだかはやっぱり分からないけど。心から安堵してる私が、確かにいる。
―――― 一方で、視界に入ってくるゲルテナの絵画やオブジェは、どことなく不気味に映る。
恐怖を抱くほどではないにしろ、気分はあまり良くない。
「……!」
どこからか湧いてくる気味の悪さの正体を、私が探っていた時だ。
ぎゅう、と私の服を握る女の子の手の力が途端に強くなった。
体を寄せてきながら、ある一点を凝視している。
どうしたんだろうと目線の先を追うと、そこには――――――
『赤い服の女』
そんなタイトルが付けられた一枚の絵画があった。
文字通り真っ赤な服に身を包んだ綺麗な女の人が描かれている。
怖さを感じる要素はないはずなのに――――なんでだろう。思わず一歩、後ずさってしまう。
女の子の瞳は大きく揺れていて、動揺してるのが一目で分かる。
「だ、大丈夫?」
早足で『赤い服の女』の前を通り過ぎると、裾を掴んでいた女の子の手を握って、できる限りの笑顔をつくって言った。
屈んで、目の高さも合わせる。
「……」
女の子は落着きを取り戻すと、力強く一度頷いた。
そんな女の子の頭を軽く撫でると、「歩ける?」と控えめに尋ねる。
今度は時間差なしで肯定が返ってきたので、立ち上がって再び館内を回り始める。
歩調はなるべく女の子に合わせながら。
――――この子が迷子ってことは、きっとお父さんやお母さんも捜してるはず。
若い男女や子供といった来場客は除いて、私もそれっぽい人たちを捜す。
現在進行形で動いてるから、すれ違いとかありそうだけど。
まあ、どうしても見つからない時は一階のカウンターにでも行っ て き
い て
み
よ
う
「――――――――あ、」
きれいな、えだった。
しゃしんみたいにあざやかで。ほんものみたいにせんめいで。しろいはだと、むらさきいろのかみのけと、こんいろのこーとと、いまにもひらきそうなとじられたまぶたと。くらやみのなかでひとりでねむる、そのおとこのひとのえのしたには『忘れられた肖像』なんてたいとるがはられてて。おんなのこもたちどまる。わたしといっしょにおとこのひとのえをみる。また、わたしのふくにしわがよる。でもどうでもいい。それよりなんだっけ、なんだっけなんだっけなんだっけなんだっけなんだっけだれだっけだれだっけだれだっけだれだっけだれだっけいやいやみたことない、しらないひとだ。しらないしらないしらないしらないしらないしらないしらない。しらないから。だからきっと『』なんてわたしのなまえをよぶこえはげんちょうだ。『イヴ』いぶ?いぶ……?ああなんとなくきいたことあるなあっておもったけど、それもきっときのせいで。わたしはえのなかのおとこのひともいぶのこともしらない。たぶん。しらない。しらない。しらない。
赤いバラと、青いバラと、白いバラと、黄色いバラと。
ボロボロのコートと、オネェ喋りと、銀色のライターと。
あれ?なんだこれしらない。しらないよ。しらないしらない。しらないしらないしらないわからないよなにこれなにこれなにこれなにこれなにこれ
「イヴ!――――ここにいたのね、もう……捜したのよ」
見るからに上品そうな女の人が、私の横にいた女の子を見て駆け寄ってきた。
ハッとなった女の子が振り向く。そして、何かを二人で話始める。……あっ声初めて聞いた。
会話を終えると、上品そうな女の人は私に頭を下げてお礼を言ってきた。女の子も同様に。
「いえ、見つかってよかったですね」口角を持ち上げて「お母さん、見つかってよかったね」世間一般で言う、愛想笑いというやつを浮かべて。
女の人はもう一度私にお辞儀をすると、女の子と手を繋いで階段を下りていく。
女の子は一回だけ振り返って、紫色の髪の男の人の絵と私を一瞥して、去っていった。
『 』 『 』
ああ、また名前を呼ぶ声が聞こえる。
優しい優しい笑い声が、聞こえる、な。
「 」
この時の言葉はあとになって思い出そうとしても思い出せない。
多分、誰かの名前を叫んだのだろうけど。
憶えているのは、私に集まる周りの視線と、何事かと慌ててやってくるスタッフの姿だけだ。
アルカナの死刑囚
裏美術館の女王である黄色いバラに処刑された青いバラの存在を、私は一生思い出すことはない。