名前は確か、九ノ瀬遥といった。
ふとした際に起こる発作が死に直結する可能性がある、重い持病を持った養護学級の生徒だ。クラスが違うどころか会話すらしたことがない私が、何故、彼のことを知っているのかと言うと、ひとえに"その重病"が学年内で広く知れ渡ってるからである。先生から初めて九ノ瀬の事情を聞かされた時は、言っちゃなんだが、とても気の毒に思った。普段の生活を送る上で、常に死と隣り合わせという境遇はごくごく平凡な体を持つ私にとっては、明確な恐怖すら抱けない次元の話だった。そんな大きな病気を持ってるのに普通に学校に来てていいのかと当然私は疑問に思ったが、そこらへんはきちんと調節されてるらしい。クラス合同で体育の授業をする時に九ノ瀬の姿を見たことはないし、発作を起こしやすくする状況を作らなければいいということなんだろうか。私は医療関係はもっぱらなので、何が九ノ瀬にとってやってはいけないことで、何をどこまでやっていいのかは勿論分からない。普通の生徒達に混ざって学校に通うことができる分には大丈夫なんだろうけど、それでも十分、日々は不安に塗れてるんだろう。
とか、なんとか考えて。
「は、ほんひひは」
――校庭にある噴水前にて。
もごもごと。口に食べ物をいっぱいに詰め込みながら、件の人物である九ノ瀬遥は、笑顔と共に謎の言葉を私に向けてきた。見てみれば彼の両腕には大量の菓子パンが抱えられており、どれも一口二口齧った跡があることから、恐らく全て一人で平らげるつもりの物だと分かる。辺りを見回しても九ノ瀬以外の生徒の影は見受けられない。
……ええと、一人で、こんな所で、パンを食べながら何をやってるんだこの人は。
加えてこのパンの量は一体……。
「あ、こんにちは〜」
もぐもぐと咀嚼していたパンを喉の奥に流し込んだ九ノ瀬が、爽やかな笑顔で挨拶をかましてきた。――その視線の先に居るのは勿論私で、
「え、あっ、こ、こんにちは」
挨拶には挨拶。
ほぼ反射条件で返事を返した私に、九ノ瀬は一度会釈すると、また菓子パンたちの方に向き直り、至幸の表情で食事を再開する。
……えー……なんだこれ。先生情報が正しければ、九ノ瀬は病弱で体に負担をかけてはいけない体質で……なのに、これはいいのか?
普通の人ならとても一人では食べきれないほどの量を難なく消化していってる九ノ瀬を見ながら、私は更なる不安に胸が騒ぐのを感じていた。
事情があって今日、私――は遅れて学校に登校して来た。門を開けてもらい、校庭を横切って教室を目指してる途中、噴水の前に人がいることに気づき、思わず足を止めた。
時刻は11時40分。本来ならまだ授業中のはずで、次の休みまではあと少し時間がある。そんな中で一人ぽつんと校庭にいる人物に、目がいかない訳がなく。なんとなく気になって様子を窺ってたら――――それが私の知る人間だということに気付いた。
名前は確か、九ノ瀬遥。
会話すらしたことがないものの、校内で何度か姿を見たことがある。
右目の下の泣きぼくろ。案外高い背丈。のほほんとしたオーラ。
――養護教室に通う、重い病気を持った男子生徒。
なんで、一人で、ここに?
彼の持病については少しだけだが知っている。知ってるが故に、こんな時間にこんな所で一人でいることに、理由を探求するよりも先に不安が込み上げてきた。
早く自分のクラスに行かなくてはいけないと思う一方、見なかったことにするのも抵抗があり、少しの間悩んだ結果――――結局。私は九ノ瀬の方に足を踏み出していて、
『は、ほんひひは』
私を視界に捉えた九ノ瀬が、パンを頬張りつつ宇宙語で声をかけてきたのだった。
まさかあっちから話しかけてくるとは思ってなかったので、急な振りに弱い私は情けなくもコミュショーのような返答をしてしまった。九ノ瀬の食事事情に驚いて呆気にとられてたのもあるが、あれはちょっと恥ずかしかったな……。
…………うん。
コミュショーと勘違いされてたらどうしよう。
私が数秒前の自分の失態を悔いてる間にも、九ノ瀬はパンを次々に胃の中へと送っていく。遠目からはただ座ってるだけに見えたが、まさか食事中だったとは。それもフードファイター顔負けの量を。
表情がすごく輝いてるというか、大好きなお菓子を前にした子供みたいに嬉しそうなので、やけ食いという訳ではなさそうだ。
長身痩躯のその体の中にパンがどんどんと吸い込まれていくのを呆然と眺めながら――――私は危うく忘れそうになっていたことを思いだす。
現在は授業中で、校庭は当たり前に誰もいない(私と九ノ瀬以外)。
私達が今いる場所は噴水の前で、位置によっては丁度噴水に隠れて姿が見えない。
――つまり。
この瞬間、もし、ここで倒れたりしてもすぐに発見されない可能性があるのだ。ただでさえ人気のない時間帯。万が一発作を起こして倒れたりなんかしたら――それで長い間放っておかれたりなんかしたら?
それそこ最悪の事態だ。
発作の一つが命に関わってくる、九ノ瀬の場合は。
「今日は貴音がお休みでね。一日中理科室にいるのもなんだから、ここに来たんだ」
私が挨拶以降アクションを取らないせいか、九ノ瀬が再び喋りかけてきた。もんもんとした私の心境とは裏腹に、食べ物に囲まれた彼はとても幸せそうだ。
――貴音、というのは恐らく榎本貴音のことで、九ノ瀬と同じ養護学級の生徒だったはず。
「そ、そうなんだ」
「うん。なんかねー、先生が授業中急に眠たくなったとか言い出してそのまま寝ちゃったから、僕、他にすることないし早めに昼食とることにしたんだ」
「ええ……」
なんだそれは……。九ノ瀬ののんびりとした声を聞きながら、私は尋ねたいことを一旦考えの中に押し込め、"その先生"について持ち合わせてる知識を頭の奥から引っ張り出す。
九ノ瀬たちの養護学級の担任教師。確か……楯山先生だっけ、理科担当の。眼鏡をかけて、赤い派手なシャツの上に白衣を羽織った、どこぞの医者か研究員みたいな格好で校内をうろついてる少し変わり者の先生だ。真面目な噂を聞いたことがないが、まさかそこまで自由奔放だったとは……。九ノ瀬も九ノ瀬で先生がいなくても自習なりなんなりできるだろうに、なぜお腹を満たすことを優先させたんだ。
想像以上に締まりのない学級である。先生がああだから九ノ瀬も影響されたのか、元々九ノ瀬がマイペースなのかは置いといて、
「大丈夫なの?」
「え?」
「いろいろと……」
教師が教師の職務を全うしてないこととか、授業も昼食もフリーダムなとことか、そもそも九ノ瀬は大食いしていいのかとか、人気の無い場所で一人でいていいのかとか。
「大丈夫だよ」
私が呆れを滲ませつつ尋ねると、九ノ瀬はふんわり花が咲いたみたいに微笑んだ。これが少女漫画とかだったら、背後で本当に花が咲いてるだろう。そんな緊張感のない笑顔を浮かべつつ、ほんの少し眉をハの字にすると、
「先生、よく貴音にも怒られてるけど、僕たちの面倒はちゃんと看てくれるし」
……今授業と生徒をほっぽって居眠りしたという話を聞いたんですけど。
「適当な部分もあるけど、いいこともあるし……あと…………え、えと……」
"先生のいいところ"とやらに興味があり、九ノ瀬の発表に耳を傾けていると、かなり早い段階で歯切れが悪くなり始めた。
私は楯山先生のことについて詳しく知らないのでなんとも言えないが……あの人はほぼ常に一緒に居る生徒に、長所を三つも挙げてもらえない程怠け者なのだろうか。
というか、九ノ瀬の言ってることが矛盾しすぎている。ちゃんと面倒を看てくれるだって?自分が今ここにいる経緯を思い出せと肩を持って言ってやりたい気分だ。
……全く、天然なのかお人好しなのか……。
「そのこともだけど、九ノ瀬は、一人でこんなとこに居ていいの?……食事も、そんなにとっちゃって平気なの?」
楯山先生のいいところを捜し続ける九ノ瀬に、怖ず怖ずと訊きたかったことを口にする。この質問は、九ノ瀬に自分の病気のことを無理やり自覚させてしまうものなので、正直言い出しにくかったのだが……特に、楽しそうに食事を満喫してるところにこの話題を持ってくるのは少々気が引けた。でも、九ノ瀬の病気を知る人間としては、彼をこのままここに放置するわけにもいかないし、不安もあるしで、とにかく見逃せなかったのだ。
「え?ああ、それなら」
こちらとしてはそれなりに気を使ったシーンだったのだが、九ノ瀬は相変わらずへらへらとした笑顔で……なぜだか照れながら頭を掻いた。
「全然大丈夫だよ。最近は調子も良いし、気分が悪くなることも少ないしね。食事の量も家ではいつもこれくらいで……学校で食べる分は普段控えてるんだけど、今日は、ちょっとね」
そう言って私から視線を外すと、どこか遠くを見つめる九ノ瀬。……何気に衝撃の事実をカミングアウトされた気がするけど、突っ込みのタイミングを完全に逃がしてしまった。
空気を読み、彼に釣られて私も同じ方向を見ると、そこには――
「……桜」
校門の外に植えられた桜の木々。もう花見の時期が過ぎてしまったので花びらはほとんど散ってしまってるが、まだ僅かにピンク色の花が枝に残っている。今まで気にかけてなかったけど、見れば足元には風に乗って校内に入ってきた花弁が無数に落ちていた。
「……」
桜の木をじっと眺める九ノ瀬の横顔に目を移す。どことなく残念そうなその表情は、今さっきまで笑っていたとは思えないほど憂いを帯びていた。
――もしかして、この大量のパンたちは。
九ノ瀬の腕の中にある未開封のパンと、すでに中身が無くなった空袋を見て、私の脳内に一つの推測が浮かび上がった。
もしかして九ノ瀬は、貴音――榎本さんと一緒に昼食をとるつもりだった?
『今日は貴音がお休みでね』
『学校で食べる分は普段控えてるんだけど、今日は、ちょっとね』
だとしたら、先程言っていたあの台詞も、今日に限って食事の量が多いらしい理由も、納得できる。
加えて今の――――寂しそうな顔。
「少し遅めの花見もいいかなって思ったんだけど」
地面に散ってる桜の花びらに目を落として、九ノ瀬が静かに口を開いた。
「――気にかけてくれてありがとう。ホントは一人のはずじゃなくて……。心配かけてごめんね」
私に謝罪とお礼を述べて、少し困ったように笑う。
……どうやら私の予想は当たっていたようだ。
こんなにたくさんのパンを購入したのは、恐らく、今朝学校に来る前。いつもと違う昼食風景を想像して、期待しつつ登校したのだろう。でもいざ教室に行ってみたら――榎本さんは欠席だった。
「……」
それでもここに来たのは、先刻本人も言っていた通り、『一日中理科室にいるのもなんだから』が理由で――――言われてよくよく考えてみれば、ホルマリンの香りに包まれた部屋で食事するというのは、なかなかに食欲を減退させるシチュエーションだ。
そこに比べれば、外の空気はとても気持ちがいい。
「う、うん。いいよ。別に」
九ノ瀬に真面目に対応され、思わず面を食らう私。二度目のドギマギ返答にまたも後悔しそうになるが、訊きたかったことをしっかり言えてよかったという本音の方が強い。へらへらしてるだとか、緊張感がないだとか散々言ったが、正直九ノ瀬のペースには助けられた。初対面の相手でも気軽に会話ができる雰囲気を作り出すのは、結構難しいものだ。――九ノ瀬本人に意図と自覚はなさそうだが。
「あ、ねえ、よかったら一緒に食べない?お昼」
ただのんびりしてるだけじゃないのかもと、九ノ瀬のイメージを自分の中で書き換えていると――
「えっ?」
「もちろん、君の都合がいいなら、だけど」
想定もしていなかった誘いを受けた。いきなりのことに硬直する私を、控えめに観察しながら返事を待つ九ノ瀬。……普通、初対面の異性を食事に誘うというのは相当ハードルが高い行為だと思うのだが……もう、ここまできたら流石というべきか。
これが天然か……。
「……ちょっと待って」
数秒で我を取り戻すと、時刻を確認するために鞄から携帯を取り出す。断る理由も、このあとしなければいけないことも特にない。了承するつもりで画面を見る――――と、正にその瞬間。
「あ……」
携帯で時間を確かめるよりも先に、聞き慣れた予鈴の音が校内全体に響き渡った。
授業の開始と終了を知らせる際に流されるそれを聞きながら、私は現在の自分の状況を、自問自答する形で、ゆっくりと、整理する。
私が今、校庭にいるのはなんでだっけ?
――遅れて学校にやって来て、そこで九ノ瀬を見かけたからです。
ただ今の時刻は?
――12時丁度です。
と、いうことはつまり?
――……インターホンで先生に到着の連絡をしてから、かなり経ってます。
「ああああああああ……!」
忘れてた!
携帯の液晶に表示されている数字を見ながら悲痛な叫び声を上げる私に、九ノ瀬の肩がビクリと跳ね上がった。目を真ん丸に見開いて、ぱちぱちと数回瞬きしてから、
「ど、どうしたの……?」
頬を引き攣らせて恐る恐るといった風に質問をしてくる。まるで変人を目の当たりにしたかのような九ノ瀬の眼差しに晒された私は、この場に居づらくなると同時に先生を待たせているという焦燥感に駆られ、いても立ってもいられなくなり一気に校舎に向かって走り出した。
「ちょっと待ってて!また来るから!」
教室に着くなり尋問の嵐にあった。
チャイムが鳴っても来なかった場合、捜しに行くつもりだったと担任に言われ、何度も頭を下げた。職員室に報告を入れてから数十分は経っていたのだ。心配をかけて当たり前である。教室に来るまでに何があったのかも根掘り葉掘り訊かれたが、「ちょっと気が変わって校庭で散歩を……」「噴水の近くに猫がいて……」と適当な嘘を吐いて誤魔化した。咄嗟に用意するしかなかったと言えどもこれは酷い。分かっている。案の定呆れられたが、やり通せたのでまあよしとしよう。楯山先生が授業中に居眠りし、九ノ瀬が校庭で早弁をしていたことはなんとなく伏せていた方がいい気がしたので、話題にはしなかったが……もしあれがバレたらどうなっていたのだろう。特に楯山先生。あの人は普段だらしない分、今回のことが表に知れて一度頭を叩かれた方がいいんじゃないか?これをきっかけに、場合によっては新しい真面目な先生が養護学級に来るかもしれない。
告げ口をするかしまいか迷ったが、ふと、"先生のいいところ"を必死にさがしていた九ノ瀬が脳裏を掠めたので――――やめた。
「ごめん、待った?」
言ってから、どこのデートに遅れて来た彼氏の台詞だと心の中で自分に突っ込みを入れた。
九ノ瀬は変わらず噴水の前に腰掛けて待っていてくれた。私の姿が見えると、パッと顔を輝かせたのがちょっと可愛かっただなんて言えない。
「ううん。全然!」
こっちもこっちで恋人と対面を果たした彼女みたいだな、とどうでもいいことを考えつつ、少しスペースを開けて九ノ瀬の隣に座りこむ。
「本当に来てくれた」
九ノ瀬が安堵を全面に押し出して肩を竦める。
…………信用ないな、私。
「僕、あのとき逃げられちゃったかと思って……」
ああ……そういえば、九ノ瀬の誘いに答えを出さないまま走ってっちゃったっけ……。曖昧なまま待たせちゃって悪いことしたな。
せめて急いでる訳を話してから行けばよかった。
「ごめん……」
「いいよ。ちゃんと来てくれたじゃん」
突然おかしな大声を上げて疾走して行った私を、九ノ瀬は簡単に許してくれた。あれで変な印象が植えつけられていたとしても、私には文句を言う権利はない。
いそいそとパン袋の封を開ける九ノ瀬の横で、私も持ってきた弁当の包みを広げる。先生の尋問から解放されたあと、鞄の中の弁当と水筒を引っ掴んで急いでここに戻ってきたのだ。
――上がってる息を鎮めるために、まず水筒に入ったお茶で喉を潤す。一応、男子が近くにいるので、豪快に喉を鳴らすことを避け、咽ない程度のスピードで飲み進めていく。俗に言う"一気飲み"で、容器から唇を離した瞬間に、本当なら思いっきり息を吐きたい衝動をなんとか抑え、蓋を回して閉める。
「貴音と先生以外の人と食べるのって初めてだから、新鮮だな」
パンを口に運びながら、さらりとそんなことを言ってのけた九ノ瀬に、お弁当の蓋を持ち上げた手が止まる。
――聞いた話によれば、九ノ瀬のクラスの人数はたった二人だったはず。
それは言わずもがな、九ノ瀬と榎本さんのことなのだが――――
クラスが自分含めた二人だけって、どういう感じなんだろう。
……当の九ノ瀬は何気なく呟いただけなのであろう一言を、私はどうしても深く考えてしまう。
過疎化が進んだ村や、少子高齢化が激しい地域の学校では、全校生徒の数が十数人なんて珍しくない話らしいが、私達の通ってるここは、そんな特別な理由も何もないありふれた平凡な学校だ(外観が無駄に西洋チックなことは除いて)
つまり、九ノ瀬たちが二人しかいない学級で過ごしてる傍らで、普通の30人40人のクラスの生徒たちは、体育祭や学園祭のイベントに盛り上がったり、大人数ではしゃいだりしてるわけで。
体や病気の関係でそんな同級生たちの輪に入れない、観ていることしかできない九ノ瀬たちは、傍観者でいるしか選択肢のない自分に、どんな感情を抱いてるのだろう。
「…………」
「わあ、それおいしそうだね!」
私が思考に耽っていると、九ノ瀬が横から弁当を覗き込んできた。距離が近づいたことに時間差で驚くと、空中で停止していた手を動かす。蓋を包みの上に置き、箸を取り出すと、物欲しそうにしている九ノ瀬に弁当を差し出す。
「どれか食べる?」
「いいの!?」
「うん」
すごく羨ましそうな顔してるし……。
「ありがとう。じゃあ、僕のもちょっとあげるね」
私がおかずを一つ二つ掴み、菓子パンが入っていた空袋の上に置くと、九ノ瀬もパンの齧ってない部分を千切ってくれた。
「これ君が作ったの?」
「うん。まあね」
「すごいね。……!ん、おいしい!」
卵焼きを手でつまんで口に運ぶと、感想通りのリアクションをしてくれる九ノ瀬。満面の笑みのまま二つ目を取ると、あっという間に完食してしまう。自分好みの味付けにしていたので、九ノ瀬の口に合うか不安だったが、彼は満足したように「おいしかったよー」と笑ってくれた。
裏表のない無邪気な笑顔は、相手に疑いを持たせる余地すら与えない。本心からの言葉だと分かる。
「……ありがとう」
――私は。
重い病気を持っている人は、いつでも幸福でないのだろうと勝手に思い込んでいたけれど。
九ノ瀬は私の前で一度も不幸な顔を見せていない。それどころか、自分の抱えてる病気なんて知らないみたいにずっと笑っている。食べ物に囲まれてる時は至福に満ちてるし、面識も何もなかった私にもフレンドリーに応じてくれた。
確かに、やりたくてもできないことや、我慢しなければいけないことはたくさんあるのだと思う。けれども、日々を過ごす中で見るもの全部が全部灰色なわけではなく、ちゃんと自分の楽しめるものを持ってる。
九ノ瀬にとってはそれの一つが"食べること"なんだろう。
菓子パンを賞味してる九ノ瀬を一瞥して、私ももらったジャムパンを頬張る。
「今度は満開のときにできたらいいね。花見」
「うん。次は先生も誘ってみようかなって思ってるんだ」
「そっか。じゃあ」
「また来年だね」
河川敷の歩道に沿って植えられている何十本もの桜の木は、ちょうど満開の季節を迎えていた。
日本人として見慣れてるとはいっても、たくさんの桜が一斉に開花してる様子は圧巻の一言である。
いつもは川の流れが聞こえるくらいに静かなこの場所は、今の時期絶好の花見スポットになっていた。
――そして私も、友達と一緒に春休みを利用して、バス代も電車賃もかからないこの近所で花見を目的にやってきたのだった。
「すごい咲いてるね」「わーにぎやか」「キレー」「どこにする?」「人多っ」「あ、あそこ空いてる」友人たちの世話しない会話を聞きつつ、空いてる所を見つけて周辺の品定めをする。
それなりの人で賑わってる故、桜の傍のスペースはどこもすでに確保されてしまっている。もっと早く来ればよかったかもと小さな後悔をしながらも、見つけた場所にシートを敷いて腰を下ろした。各々持参してきた弁当やお菓子を広げて、これといった特別な要素もない、普段通りの雑談を開始する。……主役のはずの弁当より、お菓子の方ばかりに手が伸びるのはご愛嬌である。
綺麗に咲いた桜の花を眺めつつ、しばらくそんなだらだらとした会話風景が続いた時だった。
どこからか、手の平の大きさほどある白いボールがころころと私達の元に転がってきた。と、同時に、
「すみませーん!」
若い男の子の声が聞こえ、目を凝らしてそちらを見てみると、声を発したその子の周りに、グローブやバットを持った同い年くらいの少年たちが数人ほど一緒にいるのが分かった。
……草野球か。
花見客らとは離れた位置にいるその子たちに投げ返してあげようと、ボールを掴んで立ち上がると、
「ごめん。当たらなかった?」
「わっ」
――いつの間にやら目の前に人がいた。
それだけでもびっくりするのには十分なのだが、おまけに話しかけられて、驚きのあまり後ずさってしまう。
「それ、僕たちの。邪魔してごめん」
「え、え?」
淡々と喋る白髪の男性を前に、私は状況について行けず、短い言葉で聞き返すことしかできない。
――なんだこの人。
少年たちに気を取られてる間に寄ってきたんだろうか。……………………ん?待って。白髪?
「……」
自分の発言に引っかかる箇所があり、無表情とも取れるボーッとした顔で佇む男性をじっくり見てみると――実に個性的な出で立ちをしてることに気付いた。
髪は見事な白色で、耳には黄色いヘッドフォン。黒いネックウォーマーを首に巻き、白と黒のシンプルなトップスにはベルトのような物が左右の腕と腰にぶら下がっている。ズボンは鮮やかな黄色で、靴はこれまた目立つネオンイエローの矢印模様が入ったブーツを履いている。
個性が突出した格好を物珍しさから凝視していると、
「。渡してあげないの?」
友人の一人が、私の服の裾を引っ張ってきた。
「あ」
――そうだ。珍しい身形をした人に気を取られてる場合ではない。このボールを向こうで待っている少年たちに届けてあげなければ。
「…………あれ?」
と。目的を思い出した矢先、また疑問が一つ湧き上がってきた。
今私の正面にいる――白髪の男性は何と言った?『それ、僕たちの。』?っていうことは……?
「貴方も、あの野球チームの一員ですか?」
「そうだよ」
マジか。
……どおりで、なんかこっちに向かって走ってきてるなとは思ったが。まさか。
すんなりと私の質問に答えた白髪さんには悪いが……野球をしている男の子たちはどう見ても小学生くらいである。その中に、外見年齢は十代後半、身長も180はあると思うこの人が紛れ込んでるのは些か妙な光景というか……。ああでも、ボール取りに来たし、保護者的な役割と考えたら……うーん?
あの子たちとはどんな関係なんだろう。
「あ、じゃあ渡しておきます」
「うん。ありがとう」
子供たちに混ざって野球を楽しんでる白髪さんが想像できず(できたとしてもかなりシュール)結局頭の整理が完全にままならないまま、私はボールを手渡した。
「…………」
「……えーと、あの?」
やり取りが終わり、そのまま少年たちの方へ駆けていくのかと思いきや。
白髪さんは私の足元に視線を注いだ状態で動かなくなった。
「お弁当……」
「お弁当?」
白髪さんの目線を追うと、そこにはまだ食べかけの私の弁当。
「お弁当がどうかしました?」
「……?ううん。なんでもない」
見つめていたからには何か理由があったと思うのだが、白髪さんはなぜか自分でもよく分からないみたいに首を傾げると、背中を向けて今度こそ場を去って行った。
「なんか、不思議な人だね」
友人が小さくなっていく白髪さんを見ながらぽつりと零した印象に、私も「……うん」と呟いた。
服装や身に着けてる物や髪の色とかもそうだけど、あの人は雰囲気自体も不思議というか――――
「……ん?」
ふと、脳裏に、去年一緒に花見をした同級生の顔が過ったが、なんで白髪さんの話をしている途中に彼を思い出したのかが分からず、友人たちの方に戻ると、すぐに考えを断ち切った。
忘 却 メ モ リ ー