ドボン。



校庭にある噴水の横を、私が丁度通りすぎたその刹那。
それなりの大きさと重量があると思われる物体が水中に落っこちたのだろう音が耳に飛び込んできた。どう聞いても小石などを投げ込んだ音量ではなかったため、何が起こったのかと私は音の発生源へ咄嗟に目を向ける。


「…………」


が、そこには物など何もなく。
――目を凝らして数秒間見つめ続けていると、噴水のモニュメントの後ろで動く人影らしきものがあることに気付いた。
そこから視線を外さずに恐る恐る歩を進めて近づくと、またも私は驚かされる結果となった。


再び大きな水音が立つと同時に、「ぷはっ」と咳き込みながら一人の男の子が水の中から全身を現した。水分を吸って重くなった服を身に纏いながら、男の子――――着ているものからしてこの学校の生徒だと分かるその人は、足下に水溜りをつくりながら校庭の石畳の上に着地する。


「はっ……くしゅ!」


咳だけにとどまらず、体を震わせて盛大なくしゃみをすると、ズズッと鼻を啜ったあと「はあ……」と深い溜息をつく。それから辺りをキョロキョロと見回して、


「……あっ」


何も言えず呆然と突っ立っている私の存在に気が付いた。
人の少ない夕刻に、まさか人が落っこちてるなんて思ってなかった私は、その男子生徒が現れてからというもの声もかけられずに固まっていたのだが、


「こ、九ノ瀬……?」


それが顔見知りだと分かった瞬間、反射的に相手の名前を呼んでいた。

そこにいたのは、九ノ瀬遥。
私と同じ学年の、養護学級に通っている同級生。
私と彼のクラスは違うのだが、一か月ほど前も今と同じように噴水の前で初めて顔を合わせて、それからちょくちょくお互いの教室に行き来する仲になっていた。

そんな彼と久方ぶりに同じ場所で再会したのだが、まさかそれがこんな状況だなんて。


ちゃんだー」


私が九ノ瀬の名前を口にすると、九ノ瀬はへらりと口元を緩めて私の方へ寄ってくる。
未だに九ノ瀬のことを苗字で呼んでいる私とは正反対に、彼はこちらのことを名前で呼んでいる。男子にそうされるのに慣れていない私は最初こそ照れたりもしたが、今はもう慣れてしまった。それに子犬みたいに人懐こい九ノ瀬に親しげに名前を呼ばれるのは嫌などころか、くすぐったくてなんとなく嬉しいのだ。悪い気はしない。

が、今はそんなことを考えてる場合ではない。


「ちょっ、どうしたの、何してたの!?」
「ここに猫がいてね、触ろうと思って手を伸ばしたらバランス崩して……へへ」
「笑ってる場合じゃないでしょ……!風邪ひくよほら、保健室行って服の代えもらって……ああー鞄もびしょ濡れ!」


全身ずぶ濡れの九ノ瀬と、その傍らにある同じく水をたっぷりとかぶった鞄を見て、暢気に笑いを零す九ノ瀬とは裏腹に一人あわあわと慌てふためく私。
「大丈夫だよー」なんてへらへらしている九ノ瀬には、危機感というものが決定的に欠落しているらしく、のんびりと鞄を掴んで「うわー教科書も濡れてる」と言いながらズボンのポケットからハンカチを取り出す。も、見事に全身が濡れてしまっているため、もちろん中にあったそれも水分を吸って使い物にならなくなっている。


「どうしよう……」
「だからとりあえず保健室に行こうって」


シュンとなる九ノ瀬の腕を引いて鞄を持たせて校舎の中へと入る。現在は下校時間で、私も丁度帰るところだったのだが、噴水に落ちた九ノ瀬に意識を持っていかれ、結果的に今のような状況になっている。なんならこのまま帰ってもよかったのだけども、九ノ瀬をこの状態にしたまま家まで歩かせるのは抵抗があった。

ただでさえ重い病気を抱えてるのに風邪なんてひいてしまったら体調にも大きな影響を及ぼすだろう。それで元の持病が悪化なんてしたら大変なことだ。本人はまるでその自覚がないかのように楽観的だが、こちらとしては常にハラハラしているのだ。
放っておけるわけがない。





* * *







九ノ瀬の着替えを待つこと数分。
借りた制服をスッキリした顔で身に着けて保健室から出てきた九ノ瀬は、「ごめんね、おまたせ」と柔らかく笑いながら両手をバッと広げた。


「すっごくスッキリしたよ」
「うん、だろうね。……とりあえず、よかったじゃん」


彼が右手に持っている鞄は相変わらず濡れたままだが。
先程よりマシになって水滴も垂れてないところを見ると、軽く拭き取るくらいのことはしたのだろう。


「それはどうするの?」
「ん?ああ、鞄と教科書は家に帰って乾かすことにしたんだ」
「……元に戻るの、かな」
「本はしわしわのままかも」
「先生に言ったらなんとかしてもらえるんじゃない」
「えっ そうなの?」
「いや……、私もよく知らないけど……」


一度びしょ濡れになった教科書とノートが完全に元通りになるとは思えない。私はそれらを修復不可能にさせるようなことはしたことがないので、今回の九ノ瀬みたいになったら学校側は何か対応してくれるのかも分からない。
言ってみるだけ損はないと思うけど……。


「……もう、気を付けてよ」
「うん。なんかごめんね」
「別にいいけど……。噴水に落ちる生徒とか初めて見たからさー、びっくりした」


どこの誰が提案したのか、うちの学校の外観や内部は西洋チックなもので溢れている。柏の街にこんな勘違い建築物があっても変に目につくだけだというのに。銅像などはともかく普通の――他の学校にはないであろう大きな噴水は、生徒から人気が高く実際人が多く群がってるのも見るが、私はこれといってそういったものに強い興味がないので、周りの感覚がいまいち分からない。それだけ人気があるなら、九ノ瀬の他にも水の中に落っこちてる人がいそうだけども、今までそんな話を校内で聞いたことがないせいか今日の出来事には驚いた。私が噂話に疎いだけで、実際噴水に落下した生徒とかやっぱりいたりするのだろうか。…………いそうだな、うん。



校舎を出て、噴水を通り過ぎ、門の外へ。その間も何気ない会話を交わしながら。歩くスピードはいつもより遅かった。
後ろから歩いてきた生徒に何度か追い抜かれたくらい、ゆっくりと足を動かしながら私と九ノ瀬は喋っていた。

私たちの家の方向は真逆なので、門を出たら反対方向に帰路をたどる。そのため一緒に帰りながら会話できる時間もないのだ。




「じゃあ、」


学校の敷地内から出ると、その瞬間お別れである。
九ノ瀬とスローペースな会話をするのは落ち着く上に楽しいので、名残惜しいのが正直なところ。


「うん。じゃあ、また明日」


私が片手をあげて軽い挨拶を口にすると、九ノ瀬もにっこりと笑ってそれに応えてくれる。「うん。また明日ね」と私も返し、背中を向けて自分の家のある方向へ歩き始めた。


と、その時。



「あっ、ちょっと待って」


急に九ノ瀬から声をかけられ、私は踵を返して彼の方に体を向ける。


「なに、どうしたの?」
「うん。えー……と、その、」
「?」
「な、名前……」
「名前?」
「僕、ちゃんのこと名前で呼んでるでしょ?」
「うん」
「でも、ちゃんは僕のことずっと苗字で呼んでるから……」
「うん」
「………僕のことも、これから名前で呼んで欲しいなあって……」
「え?」


なんでこのタイミング?
マイペースな九ノ瀬にしては珍しく、目を泳がせながら言葉を紡いでいた。そんな唐突な彼の要望を聞いた私は、


「えっ……あー……、そ、そうだね」


なかなかに恥ずかしい用件であったために、ガラにもなく頬を染めることとなった。あと突然すぎて若干焦った。
異性を名前で呼ぶのに抵抗がない気さくな子もいるのだろうが、私はそういうタイプの人間ではない。もちろん九ノ瀬のことを名前で呼ぶのが嫌なわけではないが、やはり恥ずかしさが先に立つ。
……だって、小学生の頃以来だよ。同級生の男の子を名前で呼ぶのなんて。


「い、いや?」
「えっ」
「無理なことをいってたら、ごめんね」
「え、あ、いや、そ、そういうんじゃなくて!」


私が何も言わずにいたせいか、九ノ瀬がネガティブな方向に思考を持っていってしまう。これは私の想像だが、もしかして今たどたどしい口調になってるのは私に否定されるかもしれないと考えているから……か?
そう思うと遠慮気味な態度にも納得がいく。そして少し罪悪感も湧いた。


「う、うん。そう、だね。私も名前で呼んで……みようかな」
「! ほんと!? ……あっ、僕の名前分かるよね?」
「分かってるよ、当然」


ずっと苗字で呼んでいるが、名前はしっかりフルネームで記憶している。同じ年齢の男の子を下の名前で呼ぶだなんて久方ぶりすぎて恥ずかしいのが本音だが、幸いなことに彼の名前は女の子としても通じるような中世的なものだ。これがもし、いかにも男男したものだったら、私の羞恥ゲージはとっくに振り切れていただろう。慣れたら問題ないのだろうけど、初めて呼ぶこの一瞬は私の場合とても緊張するのだ。
名前で呼び合うのがおかしい関係ではないのだけども、やっぱり。


「は、」


目の前で瞳を輝かせながら、まだかまだかという風に期待をこめた視線で私を見てくる九ノ瀬。その真っ直ぐな眼差しを真正面から受け止めることに、恥ずかしさから耐え切れなくなった私は、少し目線を逸らして呟くように"それ"を口にする。


「はる、か……」
「…………!!」


もはや囁きと大差ない声量で放たれた声でも、それを聞いた瞬間、九ノ瀬はパアッと顔を輝かせて満面の笑みを浮かべた。


「くん、とかはいる?」
ちゃんの好きなようにしていいよ」
「じゃ、じゃあ、なしで。遥で。同級生なんだし」
「それなら僕もこれからは呼び捨てにしようかな」
「う、うん。まあ、それでいいんじゃない」


実は『ちゃん』付けで呼ばれるのは前から少々照れくさかったりした。なかなか言い出せなかったけど、この機会に修正されてよかった……。不快に感じてたわけではないんだけど、人前で叫ばれると恥ずかしくなったりしたのは事実だ。


「じゃあ、明日からは"遥"って呼んでね」
「うん」
「……えへへ。よかった。いきなりだったから、びっくりされて終わるかと思った」
「いや、したよ!充分!」
「あ、やっぱり?……保健室出てからずっと考えてたんだけどね。良い機会だし、帰り際に、僕のこと名前で呼んでーって頼もうって。」
「え?」
「そうしたら、明日会うときの楽しみができるなって。お互い名前で呼び合う感じの……」


右手と左手の人差し指同士をくっつけて控えめにそう言う九ノ瀬……いや、遥。
……もしかすると彼はずっと私に名前を呼んで欲しいと思ってたのかもしれない。現に、今は満足そうに笑ってるし。


「……そっか。それじゃ、明日は私の方から教室に遊びに行くね」
「うん!呼びにきて!」
「わかった」


二人で笑い合って、再び別れの挨拶を交わしてから背中を向ける。
明日は朝一番に遥のところへ行こう。それが楽しみでもあり、初めて名前を堂々と言う場面になることから、少々恥ずかしさと緊張に包まれた気分にもなり。

でも。



「……遥、か」


悪くないな、と思った。友達とまた一歩距離を縮められたのだと思うと。


その後も家に帰り着くまで、遥の嬉しそうな顔と明日のことを考えてた私は、それこそ久しぶりに次の日の学校が楽しみになったのであった。






水 色 エ ブ リ デ イ