7月中旬。夏休み直前の夕方の空は青かった。
真冬ならすでに日が沈み暗闇に包まれる時間帯だが、夏本番が近いこの時期は太陽が傾くにつれて涼しくはなってきてるものの、外の明るさは昼間と大して変わっていなかった。
窓から入ってくる自然の風と扇風機が送ってくれる人工的な風を受けながら、机の上に広げられているプリントと睨めっこをする。が。


「暑い……」


暑さのせいで集中力に影響が出て正直勉強どころではない。
解答欄をほとんど埋められてない問題用紙にポタリと汗が落ちて滲んだ。


放課後。理科準備室にて。
楯山先生が担当する「理科」の成績に難ありの判定が出た私は強制居残り。全ては自分のせいなのだが、やはり今のこの状況を嘆かざるを得ない。暑い。
草木をかすかに揺らす程度の侵入が不定期な風と、ずっとこちらを向いているわけではない首振り設定にしてある扇風機の風だけじゃあこの真夏は乗り切れない。
暑い。


「これくらいの暑さで音ェあげてたら8月に入ってどうするつもりだよ、お前」
「クーラーのついた自宅で勉強したいです……」


黒板前の教卓に椅子を持ってきて座っている楯山先生は、私を呆れた視線で見つめながら気だるそうに声を上げた。
ちなみに先生の服装はいつもの赤シャツ+白衣という一年を通して変わることのない、季節感を完全に無視したおなじみの恰好だ。夏制服を着用している私でさえ汗をかいているのだから、白衣に長ズボンを着た先生なんてサウナを身にまとってるもんじゃないだろうか。
汗の量が尋常じゃない気がする。


「暑がりだなあ。今日は結構涼しいぞ?」
「……その恰好でそんなこと言える先生をこの時期だけは尊敬しますよ」


まるで自分は暑さなんて一切感じてませんみたいな口調だが、実際先生もシャツを指でつまんでパタパタさせて首に風を送ったり、左右に扇風機が動く度にそれに合わせて体を傾けたりしている。
そこまでするクセに白衣を脱ぐ様子が全くないのは理科教師としてのプライドか何かなのか。見てるこっちが暑苦しい気持ちになってくる。


「あー……おい、


ハンカチで汗を拭いて、先生との軽い会話を挿んだところで勉強を再開しようとした正にその瞬間。
再び先生の声が横からかけられる。


「なんですか……」
「使わないなら貸してくれ、それ」
「それ?」


ぐでー、と椅子に体重をかけてのけ反り座ってる先生が私の方を見ながら何やら指をさしている。


「?」


その視線と指先を追って辺りを見回すが、先生の言う「それ」にピンとくるものがなく、キョロキョロと周囲を見渡すことしかできない私。


「それ、それ。下敷き」
「……下敷き?」


なかなか指定されたものを見つけ出せない私に、先生が欲してるものの名前を口にする。
先生から渡されたプリントの問題を解いてる今は、不要な下敷きはノートに挟んで机の隅に置いている。……一体何に使うんだろうと疑問に思いながら下敷きをノートから抜き取って、先生(立ち上がる様子がない)の下へ持っていく。


「おーサンキュー」
「何に使うんですか、これ」


私の質問をスルーし下敷きを受け取るやいなや、それをうちわのように使ってパタパタと自分を扇ぎ始める先生。


「……」


「ふう……」とどこか涼しげな表情で風を送り続けるその姿は、夏の休み時間の学生そのものだ。


「えっと……」
「ああ、悪いな。勉強続けてくれ」


私への用は済んだとばかりに下敷きを持ってない方の手をヒラヒラさせて私に「戻れ」の合図を出す。
……言いたいことは多々あったが、あえて私は何も口にせず自分の席に戻る。
このだらけきった教師相手に話しをするのもなんだか時間を無駄にする気がするし、何より出された課題をさっさと終わらせてさっさと家に帰りたい。

今度こそは横やりを入れられずに集中モードに入ると、しかしいきなり回答に詰まって手が止まってしまう。シャーペンを上下に揺らして問題用紙に黒い点を作りつつ何度も問いを読み返すもさっぱりで、曖昧な答えすらも浮かんでこない。
こんなときこそ先生に質問するべきなんだろうが、用紙を渡された際に「分かんないとこあったら適当でもいいからとりあえず埋めとけ。後でまとめて教えるから」となんとも投げやりな言葉を投げられたのだ。


なんの手助けもないまま苦手な教科と向き合ってる私を尻目に、呑気に目を瞑って涼んでいる理科担当教師に目をやる。
「せめて近くで経過を見てやろう」という気はないのだろうか。この先生は、本当に。
普段この人に授業を習ってる養護学級の生徒がなんとなく不憫に思えてきた。せめて少しでも真面目に接してくれたら……。


「…………あ」
「え?」


そんな不満を頭の中でグルグルさせつつ先生から視線を外した途端、気の抜けた声が先生の方から聞こえてきた。
目線を戻すとそこには、下敷きを扇ぐ手を止めて、時計を見ながら硬直状態になってる先生の姿が。


「……どうしました?」
「完全下校時刻すぎてんじゃねえか!!」


勢いよく椅子から立ち上がって声を荒げると、そのままスタスタと私の方へ歩み寄ってくる。


「よし。今日は終わりだまた明日」
「明日から夏休みなんですけど。っていうか今日私ほとんどというより全然先生に勉強教えてもらってないし問題用紙渡されてあとは放置だったんですけどそれについてはどういう」
「ああ、悪い悪い。今日は帰れ。な?」
「言われなくても帰りますけど……」


黒板の上に掛けられてる時計に目をやると、時刻は5時を優に過ぎて長い針は6を指していた。そういえば廊下もグラウンドも静かになっている。知らせのチャイムも鳴ったと思うのだが、お互いそれに気づかなかったということは私たちは揃って聞き逃したというわけか……そうか。
なんにせよ先生つきでこんなに無意義な時間を過ごしたのは初めてだ。暑さのせいでロクに集中もできなかったし、今回に限っては本当に自室でクーラーでもつけながら参考書をやってた方がよっぽど身になったことだろう。


「とりあえず裏門から帰れ。コソっとな」
「なんでそんな、まるで後ろめたいことでもしてるみたいな……。別に大丈夫でしょう」
「こんな時間過ぎてまで女子生徒と二人きりってなんか変な勘違いされそうだろ?」
「は?」


耳打ちでこそこそと突飛なことを言ってきた先生に、思わず威圧感を含んだ一言が飛び出した。
…………。ああ、なんていうか、この人は、本当に……。


「変なビデオとか雑誌の見すぎじゃないですか。そういうスケベなのばっかり持ってるからアヤカさんにも毎回怒られてたって前アヤノちゃんが言ってましたけど」
「は!?……あいつ見てたのか!?」
「とにかく今の、私以外の女子生徒に言ってたらセクハラ教師確定でしたよ先生」


今私の目の前で「アヤノ……お前俺がアヤカに絞られてるところを……」と言いながら残念なことになっている楯山先生の、娘であり生徒としてこの学校に通っている「アヤノちゃん」と結構仲が良い私は、先ほどのような楯山家の家庭風景を彼女から聞いたり、学校内で話すだけでなくお互いの家に泊まりに行ったりするくらい親交が深かったりする。
なので楯山先生とも普通の生徒と先生より気軽にものを言える間柄である。

無論それ以上の関係ではない。断じてない。


「ではそろそろ帰らせていただきます。正門から堂々と」
「待て!」


先生の手から下敷きを取り返し、机の上のノートや筆記用具を素早くまとめて鞄にしまって教室の出口へと足を進めるが、あともう3歩でドアに手が届くというところで先生に鞄を掴まれ立ち止まざるを得なくなる。


「いや本当にそんな心配しなくていいんで」
「いやいやお前もできれば見つからない方が都合がいいだろ?他の生徒はもう残ってねえわけだし目立つぞ」
「いやいやいやむしろ裏門使ってるとこバレた方がやっかいなことになりそうなんで遠慮しときます」
「いやいやいやいやここは俺の言う通りにしといた方が……」


お互い引かない意見主張。そうこうしてる間にどんどん暗くなっていく空。
結局グダグダとこんな感じのやりとりが10分以上続き、放課後の見回りをしていた先生に二人仲良く見つかったのは言うまでもない。





とある夏日の放課後事情