家に帰ってくるなり俺の出迎えも無視して一直線に自分の部屋へと向かっていく様の背中を、俺は黙って見守る。スタスタと足早に頭を項垂れさせて片手を目元にやり、鼻を啜るその姿に、自分の胸がチクチクと痛むのを感じながら、扉のノブに手をかけて中へと消えていく様を視線で追う。普段より若干荒めに閉じられたドアの奥で、しゃくり上げて泣く声が聞こえてきたのを確認すると、俺はそっと部屋の前に近づいて様子を窺いつつ語りかける。
「様」
あえてノックはせず、名前だけを呼んで。
「……また、人間共に何かされたのですか」
吐き出すのが少し躊躇われた質問を恐る恐る口にすると、一瞬、ピタリと様の泣き声がやんだ。――しかしまたすぐ、か細い声が再生され、間々に弱々しい返答を織り交ぜて、絞り出すように喋り始めた。
「……きょ、今日も……だめ、だった……みんな、私の、こと、……変だって、」
小さな叫びに似た吐露を俺は黙って耳に入れる。俺の尋ねたことを否定せず、むしろ『そうだ』と言わんばかりの告白をした彼女の言葉を受け取り、俺は心の中で短く呟く。
――案の定か。
俺の"元主"の実の子である様は、"メデューサ"という異形の血が混ざってるが故、なかなか人間たちの住む世界に馴染めずにいる。それもそのはずで、"人"と"人ならざる者"では、価値観も、生きる長さも、今まで送ってきた生活も何もかもが違うのだから簡単に分かり合えるはずもなく。かつて人間から一方的な迫害を受けていた"元主"は、様が自分と同じ思いをされないように、ある程度成長されるまで外界との接触を全て絶ち、家族以外の存在との関係を一切持たせなかった。まだ己の身を守る手段というのが十分に取得できていない様にとって、それは懸命な判断であったが――――しかしそれ故に今まで生きてきた数百年間、外と他人との関わりが全くなかったせいで、人間社会に足を踏み入れ始めてそれなりに経つ現在でも未だに人間と上手く関係を築けずにいる。
この様子を見る限り、今日も自分から勇気を振り絞って歩み寄ったのだろうけども、慣れない他者とのコミュニケーションに戸惑い、対処できず、結果爪はじきにされたと見て正しいだろう。今回が初めてではないので、ある意味で見慣れた光景になってしまってるが、主を思う身としては、落ち込んで泣いている様の姿を目にするのは心苦しいものがある。
――一介の蛇に、いつからか、そのような人間じみた感情があったことに驚いたのは、言うまでもない俺自身だ。――が。冷静に元を辿れば何の疑問もないのが事実で。
自分の中で交錯する様々な意思。それの"詳細"はまだ何なのかはっきりと分かってはいないが――――。
「様」
泣きやまない"現主"の名前を再び呼ぶ。――相変わらず聞こえてくる音は変わらず、数秒待っても次は返事すらなかったが、耳を傾けてくれているという前提で俺は一人で喋り続ける。
「一つ、お話しをしましょう」
「……」
「今までは……いいえ、実際今も完全な整理はついていないのですが、正直な私の気持ちを、ありのままお伝えさせていただきますね」
「……」
「ご存じでしょうが、私は"元主"の精神から産まれた存在です。"元主"が抱いた様々な感情――身勝手な人間への憎しみ、誰かと関わるようになってから感じた孤独、そして授かった子に対する愛情。"元主"が感じたそれらの情は、私自信にも引き継がれているのです」
「……」
「……。ですから、様。理解のない人間たちの輪に無理やり入っていかなくとも、私がずっと傍に居て様を愛し続けます故……」
貴方のことを邪険にする人間共なんかの元へ行かないでください。
俺の話しを聴いてくれているのか、抗議や中断の声を上げずに無言の返答だけを寄越す様。細かい動向までは探れなくとも、彼女が幾度となく外へ出向いていた理由を知っている俺としては、現在様が非常に複雑な心境でいられるのだろうことが分かる。
様は外の世界に憧れている。
人間たちの紡ぐ"日常"とやらの中に自分も混ざってみたいと、幼い頃から思い続けている。ずっと森の中で家族以外の人との関わりを持たずに生きていたお蔭で――"元主の夫"が外から調達してきた空想の絵本を通じて人の営みを知ったのを切っ掛けに、外界へ身を投じることを願うようになった。――しかし現実というのは物語のように幸せに溢れてるわけがなく、様は何度も壁にぶち当たる結果となっている。
――いっそこのまま諦めてはくれないだろうか。
――俺が傍に居るだけでは不満足なんだろうか。
毎回その"壁"にぶつかっては目を赤くして帰ってくる様の姿を見て、思う。それと同時に湧き上がってくるのは、自分勝手な己の主張。世界を広げたいと願う様に対して、積みあがっていく独占欲に似た感情。いつも我慢していた気持ちを今回やっと吐き出せたことで生まれてくるのは、疑問と――その次に、確信。
"元主"は娘である様が人と関わりたいとの思いで世の中に一歩を踏み出す光景を見て、どう思うだろうか。昔はともかく今は成長し、自立心も持っている。少しずつ少しずつ世界に触れようとしている娘の行動を見て、どう言うだろうか。
一度考えたら"答え"を見つけ出すのには時間がかかるだろうと予想したものの、案外というべきか必然というべきか、解答はすぐに見つかった。
"元主"は心配しながらも、様を応援して外の世界に送り出すだろう。胸につかえるものがありながらも、まだ世界を知らない娘のため、これから色々なものに出会い、体験していかなくてはならない娘を心から思い、背中をおすことだろう。そして想像する。娘が人間たちの輪に溶け込み、自らの手で切り開いた未来の中で笑って暮らしている風景を。――それが実現した時の"元主"の気持ちや反応なんて、俺が一番知っている。
"元主"は俺で、俺は"元主"なのだから。
"元主"の精神から誕生した俺があの人が考えることを理解できないはずがない。"あの人"なら絶対に喜ぶ。自分の娘が人間たちに受け入れられ、そこで平穏に暮らすことを。
思ってみれば当然の"解答"に辿り着くのに少々時間を有したのは――今まで抱いたことのない戸惑いと気持ちが、己の中でせめぎ合ってるからだ。
様が外の世界へ出て、多くの人間たちに囲まれる。想像するだけでムカムカとした心境に見舞われると自覚したのは少し前、様が泣きながら帰ってきた3回目のときだ。その後も言葉にできない灰色の感情が募っていき――――。最終的には、人間に囲まれ、その中心で様が悲しみに暮れて泣いていようが幸せに満ちた顔で笑っていようが、『面白くない』という本音を抱いてることに気が付いた。それが皮切りだと言わんばかりに今までほとんど持ったことのない感情たちが、瞬く間に俺の心身に沁み渡っていった。
――様は人間共なんかとは関わらなくていい
――俺の傍に居ればいい
――俺だけの隣に居ればいい
――どこにもいかないで欲しい
――俺以外からの情など受け入れなくていい
"元主"が抱くものとは全く違う、次々と流れてくる勝手な"思い"は、俺の思考能力をも奪っていく、"あの人"のことが分からなくなる。まさかそんなことがここにきて起きるだなんて夢ににも思わなかったため、整理も分析もまだ十分にはできていないが――一つの推測を挙げるとすると、これは、
――俺自身の感情。
――"元主"のものでない、俺という個体が生み出したもの。
何がどう巡ってこのような心境に陥っているのか、明確なきっかけは思い出せないが――――
「……いや、」
――思案を放棄しようとしたところで、一つの記憶が脳裏に浮上する。最近の出来事だ。様が外に出かけ、珍しく笑顔で帰って来た際に、嬉しそうに俺に見せてくれた可愛らしい一輪の花。俺と様が居る森では一度も見たことがなかったため、人間たちの間で流通しているものをもらってきたのだろうと、すぐに見当がついた。
『男の人にもらったの』
『私に、似合うって』
微かに頬を染めて、はにかみながらそう言った様。――――瞬間、俺の心中に、ドッと"黒い何か"が溢れ出すのを感じた。説明もつかない、名前も知らない"それ"は、今も俺の身体の中で燻り続けている。火がついて爆発したらどうなるのかすら分からない。"あの一瞬"以降、煮え滾ってる"それ"はこれから自分にどう影響していくのか、俺の様に対する捉え方も変え――素直に見守れなくなったのは何故か。
何もかもが解らないまま。
不変なのは、昔も今も変わらず、俺は様を愛しているということだけだ。
i f の 考 察
考慮に沈んだ俺の前で、不意に扉がゆっくりと開いた。泣きやんだらしい様が次に奥から姿を現すことを想像して、俺は考える。隣でありきたりの言葉を吐くだけの慰めでは物足りない。ましてやあんな告白をしてしまった後だ――……今日はどんな慰め方をしよう。