寝坊した。完全に寝坊した。
全力疾走で通りを駆けていく私の脳内は完全に焦燥感に包まれ、息があがってることなどいちいち気にかけていられないほどに、ただ、ひたすら目的地へ向かうことだけを考え続けていた。

前方を歩いてる人に注意しながら、角は素早く身体を捻って曲がり、信号で足止めをくらった際にはその場で足踏み。青に変わるとほぼ同時に一歩を踏み出し、また同じ速度でコンクリートの上をひた走っていく。
家を出てからずっとそんな調子で足を動かし続けていたからだろう。
二つ目の横断歩道で停止した時には息は切れ切れになっており、このまま酸欠を起こして倒れてしまうんじゃないかというほどに疲労が溜まっていた。普段は家に引きこもりっぱなしで外出したとしても、近所のスーパーにブラブラ買い物に行くくらいで、もちろん常日頃からロクに運動なんてしていない。紛れもない日々の運動不足がここにきて露呈し、まだ外に出てから5分くらいしか経ってないというのに私の足の筋肉は悲痛な叫び声を上げていた。

目の前を悠々と横切っていく車の群れが停車するのを待つ間、暫しの休憩も兼ねて私は数時間前の自分を呪い始める。



バレンタインデー。
恋人や好きな男子、気になる相手がいる女の子にとってこの日は絶対に見逃してはならない一日だ。
カップルにとっては甘いイベント、片想いをしている娘にとっては背中を押してくれる大事な行事。去年まではスルーしていた自分にも『渡したい』と思える異性ができ、今年、初めて本格的にチョコレートを手作りすることを決め、奮闘の日々に入ったのだった。
慣れない料理に手こずりながら、それでもなんとか形にして試行錯誤とたくさんの失敗の末にやっと満足のいくものを完成させることができた。



当日に。



――そう。
ただでさえ手際が悪いのに何度も何度もやり直したお蔭で、膨大な時間がかかってしまい、結局納得いくものができたのは2月14日の深夜2時を過ぎたときだった。
渡したい相手――セトはこの日、朝早くから夜遅くまでバイトが入っており、帰ってくるのは夜中になると言っていた。だから私もいつもより早くに目を覚まし、セトがバイトに行く前にチョコレートを渡してしまわなければいけなかったのだ。どうしても14日の日に手渡したいという気持ちは、気になる男子がいる女の子ならきっと分かってくれるはずだ。私の中には、はなから『14日は一日中いないのなら、明日あげればいいか』とか『部屋の机の上にでも置いておけばいいや』などの考えはなかったのだ。

しかし。
チョコができたあと、セトが起きてくるまであと4時間はあるということで、眠気も我慢していた私は目覚まし時計をセットして眠ってしまった。
結果として予定していた時間には起きられず、目覚めた時には昼の12時を過ぎており――――


今のこの状況に繋がっている。


キドやマリーも私を起こそうと試みてくれたみたいだが、何度声をかけても身体を揺すっても起きることはなく、白旗を揚げざるを得なかったと言っていた。ちなみにセットした目覚まし時計は床に残骸として散らばっており、この時以上に私は自分の寝起きの悪さを呪ったことはない。


「はあっ……」


信号が赤から青に変わり、私は大きく息を零してから再び足に力を入れる。
目指すのはセトの勤め先である花屋さん。大寝坊をして絶望的な心境に見舞われた私に、希望の手を差し伸べてくれたのはそこの店主であるおばちゃんだった。

寝過ごしたせいで当初の予定が大幅に狂い、もう今日中にチョコレートを渡すのことはできないだろうと落ち込んでいた私。全てが手遅れだった……と完全な諦めムードでベッドにうつ伏せになった途端、ふと、一つの案が脳裏に過った。『流石にこればかりは個人的すぎる問題だからムリだろう』とあまり期待しないままダメもとでそれを実行してみると――――驚くことに願いが通じ、承諾をもらえたのだった。


電話。
私が思いついたのはそれだ。
セトが午前中にシフトを入れていた花屋に電話をし、私とは結構親交がある店主のおばちゃん(セトがバイトしてることから、頻繁に訪れていたらいつの間にか仲良くなった)に事情を話し、休憩時間の間だけでも出入りできないかと尋ねた。するとあっさり『うん。昼休みの間ならいいよ』との許可をもらい――――速攻で家を飛び出してきたのだった。


現在の時刻は12時30分を過ぎた頃。
止まることなく走り続けると、目当ての店はすぐそこに見えてきた。胸に抱いたチョコレートをいっそう強く抱き、スピードを落とさぬまま走り続ける。




* * *






「はあ……はあっ……はあ……」


店の前に着いた時、私はこれまで味わったことのない苦しみに支配されていた。決して大げさに語ってるのではない。今、私は間違いなく人生の中で一番の疲れを身体で感じている。どれだけ過去を思い返してみてもこれ以上にヘトヘトになった経験はない。
声を発することもできずに肩で息をしていると、客が入っていく入口とは別の扉――つまりは裏口が開き、見慣れた人物が顔を出して私を手招きしてるのに気付いた。いつも親しげに話している店主のおばちゃんの顔を見た瞬間、こんなに疲弊しきった状態でも口元が綻ぶのが分かり、その場を移動して招かれた方へ歩を進める。


ぜえぜえと息をする私を心配するおばちゃんに迎えられ、店の従業員用のスペースへと案内される。心臓がうるさく音を立てているのは、走ったせいか、求めてた人にやっと会えることに対するピンク色の感情のせいか。どちらにせよ今の私に冷静な判断能力はなく――――何度か目にしたことがあるこじんまりとした休憩部屋のドアが開かれ、いよいよ緊張感が私の全身を襲う。

開かれた扉の先にいたのは――――数時間ぶりに見る、そして私がここまで力を振り絞ってやってくる理由にもなった男の人がいた。


「セ、セト……!」
!?」


私の姿を認めた途端、ガタンと音を立てて席を立ち、目を真ん丸に見開いて驚きを露にするセト。


「な、なんで」
「わ、私……寝坊しちゃって、朝起きられなくって……セトに……セトに、どうしても、今日中に渡したくて、それで……」
「とりあえず、落ち着いて」


呼吸を荒げて言葉を紡ぐ私の声を遮り、セトは近くのイスを引いてそこに座るよう私を誘導する。


「どうしたんすか?」


腰を下ろした私に合わせるようにして屈み、視線を合わせて尋ねかけてくるセト。
同じタイミングでおばちゃんが水の入ったコップを持ってき、私を気遣いつつすぐに傍を離れた。――が。一瞬。去り際に口角を上げていたことを私は見逃さなかった。


――おばちゃん、セトに私が来るって言ってくれてないな……。
――……あの人はあの人で、この状況を楽しんでるのか。
――言うまでもなく、若者同士の色恋沙汰を。



「あ、あのね、セト」
「はい。ゆっくりでいいっすよ」


置かれた水をおばちゃんに感謝しつつ飲み干し、深呼吸をして乱れた息を整える。正直まだスラスラと喋るのは苦痛だったが、時間も時間なだけに、完璧に落ち着くまで待つというのはできない。


「、あの」
「うん」
「こ、これ……つくったんだけど……その、朝渡し忘れて、今日一日中セトはバイトだから、この時間しかないって、思って……。どうしても、じ、自分で、この、この日に渡したくって、だから……!」


胸に抱えた手作りのチョコレートを差し出しながら、それでも恥ずかしさからだんだんと声が小さくなり、"それ"を持つ手も下へ下へとさがっていく。けれどなんとか事情と言いたいことは伝えきり、そして、最後に、一番感情を込めて、一番言いたかった一言を――――――。



「受け取ってください」



強く握っていたお蔭で皺々になった包装。
本当はもっと綺麗なままで渡したかったが、そもそもは自分が寝坊したのが原因の自業自得なので、もうこの結果には今更どうこう言わない。中身のチョコレートは潰れてないと思うが、外から見る限りはグシャグシャでかなり見苦しい。

――こんなので、受け取ってくれるだろうか。

思わずそんな不安に駆られて顔を伏せてしまいそうになったが――その直前。
スッ、と手に持っていた"それ"が、私の手からゆっくりと離れていった。


「ありがとうございます」


視線をあげると、目の前には、微笑みを浮かべてお礼を言うセトの姿。
その眩しすぎる笑顔と、受け取ってもらえたという安堵感から――――私の身体はとうとう力を失って、前へと倒れてしまう。


っ……」


咄嗟にセトが受け止めてくれたが、色んな意味で私は限界を迎え、自力で起き上がることができなくなっていた。

「大丈夫っすか!?」と頭の上から降ってくるセトの声にこくこくと頷きながら、チラ、と扉の方に視線をやると、力強く首を縦に振って親指を立てるおばちゃんがそこにいた。
それに対し、私も一度顎を引くと、心の中だけでここ数分の展開を噛み締めて、呟いた。



……なんだかんだで、ハッピーバレンタイン。