『今まで何かに夢中になったことも熱中したこともなかった』
「うん」
『見えてる世界の全てが退屈で、白黒だった』
「うん」
『……だから"何か"に魅力を感じたことも、必死になって"何か"に手を伸ばしたこともなかった。……小さい頃は"何か"に希望を抱いたり魅了されたりしたのかもしれないけど、けどそれはもうずっと前の話だ』
「……うん」
『こんなオレの人生にも色がついた時期があった。毎日がつまらなくて、空虚で、空っぽで、退屈だった日々に、不器用な赤の色がつき始めた』
「……うん」
『いつも笑顔で、いつもどうしようもないオレに手を差し伸べて、いつも前向きなことを言ってる。オレの世界が赤く染まり始めた。でも、』
「でも?」
『その色がある日突然消えた。オレの世界から色が消えた』
「……また、白黒になったの?」
今までほとんど絶え間なく続いていた会話に初めて沈黙が生まれた。
数秒、数分、正確な時間は分からないけど、すごくすごく長く思える静寂が私と電話の向こうにいるあいつの間に横たわった。時計の針の音が鮮明に聞こえる静かな部屋で、私は自分から口を開くことなくあいつの言葉を待った。
もう一度言おう。
すごくすごく長く思える沈黙だった。
でもそれは私がそう感じていただけで、実際はほんの5秒ほどもなかったのかもしれない。
『違う』
『何も視えなくなったんだ』
× × ×
『次のニュースです――――千葉県柏市で――に住む18歳の少年が――――自宅で死亡しているところを――頸動脈を掻き切った跡があり――現場には血の付いたハサミが――――は自殺とみて――』
いつも見ているニュース番組で見慣れた女性アナウンサーがニュース原稿を淡々と読み上げていくのを聞いていた。
最近は珍しくなくなってきている"学生が自殺した"というニュースを一通り読み終えると、アナウンサーのいるスタジオから画面が切り替わり、私にとってこれまた見慣れた住宅街の風景が映し出された。
毎日見てる景色。いつも歩いてる通学路。
子供の頃から馴染みのある近所の映像が流れていくのをぼんやりと眺めながら、思い出せる限りのあいつと過ごした日々を振り返るように頭の中で記憶を巻き戻す。
私とあいつはいわゆる幼なじみだ。
中学校に入って以降は距離がはなれてしまったが、家も近いし、昔はよく一緒に遊んだりしたしで、なんだかんだで一番近くにいた。ので、幼なじみという表現を使わせてもらう。
最初の出会いは、思い出せない。
同じ年齢。同じ幼稚園に通うご近所さんということで、まずお母さん同士が仲良くなったと聞いている。
無論その頃の私は物心もつきたてで、初めてあいつと顔を合わせたときの感想だとか、会うたびどんなやり取りをしていたのかは正直憶えていない。かすかに一緒に遊んだ記憶があるから、相性は悪くなかったろうけども。
幼稚園を卒園したあとも同じ小学校に入り、毎日あいつが私を家の前まで迎えに来て二人で登校するというスタイルを6年間続けていた。
朝に弱い私は家を出るまでの準備にとにかく時間がかかり、あいつを待たせるのなんて日常茶飯事だった。玄関の扉を開けたら挨拶の前に謝罪をするのがいつの間にか恒例になり、その都度あいつも悪態を吐いたりしていたが、そんな応酬を何回も繰り返してるうちに家を出たら無言で頭を叩かれるのが日課になった。
「……ふふっ」
懐かしい毎朝のやり取りを思い出せば、無意識に頬が緩んでいた。
そういえばあいつ、どんなに私が遅れても時間通りに出てこないと分かっていても、いつも約束した時刻丁度に来てくれていたっけ。
文句を垂れながらも、なんだかんだでとても律儀なやつだった。
テレビ画面には、目から下が映し出された女性がリポーターからあいつのことについての取材を受けているシーンが流れている。
『最近はあんまり姿を見なくて』 『活発な印象はないけど優しい子で』 『すごく成績も優秀で』 『近所に仲の良い女の子がいて昔はその子とよく一緒にいるのを見て』
近所の人々が語るあいつを聞いて、緩んでいた口元が再び締まる。
小学生時代。
それまではお互いの家を行き来したり、一緒に登下校したり、遊んだり、学校内ではクラスが変わっても顔を合わせればどちらからともなく声をかけて談笑をしたりしていたけど。
中学に上がった途端。思春期特有の感覚とでもいうのだろうか。どこか余所余所しくなりだんだんと距離ができていった結果、二人で学校に行くことも、家に遊びに行くこともなくなり、3年間一度も同じクラスになることがなかったのもあって、近所で会っても軽く挨拶を交わす程度の仲になっていた。
私は私で中学で仲良くなった友達と行動を共にするようになり、あいつはあいつでいつからか女の子と二人でいるようになったりで、私たちの関係は小学生時代から一転、友達以下のとても他人行儀なものに変わったのだった。
お母さんたちは変わらない仲で最近もうちにやってきたりする。
母親経由であいつの近況を聞いたりもするが、中学のときはすでに遠い存在になってしまっていたあいつのことを聞いても、正直興味が持てないのが本音だった。
高校には別々のところに入ったのもあって余計に離れてしまったせいか、今ではお母さんから名前を話題に出されない限り思い出すこともほぼなくなってしまっていた。
しまっていたのだが。
高校一年の夏の終わり。
あいつが学校の友達の自殺を切っ掛けに家に閉じこもるようになったと聞いたときは、当然驚いたし、じっとしていられなかった。
何か言葉をかけようと思って、久々にあいつの家に行った。
引き籠り始めたという話はもちろん、最も衝撃を受けたのがその"原因"で、テレビの向こう側でしか聞いたことのないような非日常が自分の身の周りの人にふりかかっているのがまだ実感できないまま、うちを出た。
チャイムを押す前に、まだ日が高いうちからカーテンの閉まったあいつの部屋の窓を見て、そこで初めて"耳にしたこと"が本当だったんだというなんともいえない現実感に包まれた。
今、あいつはあの部屋の中で何をしている?どんなことを考えている?
一度そう考え始めたら、次々と、色々な考えが私の脳内を目まぐるしく回って、思考する度にインターホンへ伸ばした手は力なく垂れ下がっていく。
もう何年も会話すら交わしてない私が、あいつと完全に余所余所しい関係になってしまった私が、いきなり顔を出したらどんな反応をされるだろうか。
そもそも今みたいな状況で、私と口をきいてくれるだろうか。もしかしたら会うことさえも拒否されるかもしれない。言葉をかけるといっても何を言えばいい?
そもそも私は自殺したというあいつの友達についても、あいつが高校でどんな生活を送っているのかさえも何も知らない。小さい頃のあいつのことはよく知っていても、現在のあいつについて知ってることはほとんどといっていいほどない。
ほぼ他人のような存在になってしまった私が、今一番抱え込んでるあいつに会って、できることはあるんだろうか。
思って、考えて、悩んで、その末私は――――――――あいつに背中を向けた。
今思えば逃げ以外の何物でもない。情けない選択しかできなかったことを、ここにきて酷く後悔する。
あいつは――シンタローは、死ぬ間際に最後の話し相手に私を選んでくれた。
電話ごしに聞いた声は想像していたよりずっと大人びてて、小学生時代とはまったく違って成長してて、あまりに久しぶりすぎて全然知らない人と会話している気分になったけど、そんな感覚の中でどこかとても懐かしいものを感じていた。
大人しいというか無愛想で、声にも抑揚がほとんどないところは相変わらず変わってなかったな。
――――それにしても。
「最後の最後で詩人みたいなこと言って……」
どうせなら一回でも「」と名前を呼んで欲しかったといえば、我が儘になるかな。
もし私があのとき逃げださずにシンタローと向き合ってたら、どうなってただろう。
前を向いてくれた?少しずつでも立ち直っていってくれた?外に出てくれた?
こんな結末になってなかった?
ニュースはすでに別の話題に切り替わっている。
もうテレビがシンタローのことについて報道することはこの先ないのだろう。
世間からもよくある学生の自殺ニュースとして存在さえも忘れ去られていくのだろう。
けれど、私は忘れない。
記憶の全てが飛びでもしない限り、きっと一生引きずって、後悔して、重りを抱えたまま、死ぬまで生きていく。
これが私の運命だ。
動けたのに。シンタローの近くにいたのに。結末を変えられたかもしれないのに。目を背けてしまった、私への罰だ。
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ふと、枕元にある目覚まし時計を見やると、時刻は昨日シンタローからかかってきた電話を切った時間丁度を指していた。
窓から入ってくる太陽の光が眩しいから、私はそっとカーテンを閉めた。