目尻に涙を滲ませながら大きな欠伸を一つ。横になっていた体を起こし、側に置いていた眼鏡をとってかけると、丸まっている小柄な背中に目を向ける。
小さな唸り声をあげ、ペンを片手に机の上の書類と向かい合っている自分の主――審神者であるを徐々に眠気が抜けていく両目で眺めるのは、本丸の新顔であり今日のの近侍である明石国行。意識が途切れる前に見ていたものとなんら変わっていないその光景を前に、彼の口から思わず感嘆の息が漏れた。
――ようやらはるわ
時刻は正午前。は仕事を開始した朝から変わらず上記の作業に取りかかっている。何を任せられるわけでもなく、ただその傍にずっと控えていた明石は手持ち無沙汰が高じて、大胆にもの後ろで横になって寝息を立て始めた――のが二時間ほど前。我ながらよう寝たな、と思いながら目を覚まし、に小言の一つか二つでも言われる覚悟で起き上がるも、かけられる言葉もなく、唖然としているのが現在。あまりにも退屈すぎて『自分寝んで』とその時は冗談混じりだった告知を実行してしまったわけだが、まさか起こされることもなく快眠できるとは思っていなかった。
――しっかし、ほんまかいな
――近侍の仕事ってこんな楽なもんなん?
――自分向いとんと違う?
やる気がないことを常々自称している明石。刀剣男士の上にたつ審神者と片時も離れず共にいる仕事など何もしていなくても気力を使うものだと、気が休まることもないだろうと思っていただけに、実際のギャップに驚かざるを得ない。今日指示を受けてしたことといえば、内番や部隊に配置された刀剣男士がしっかりと持ち場に入っているかを確かめる、これだけである。近侍。これはもしかしたら役得かもしれないと明石の脳内に不真面目な思考が巡る。今日はたまたま近侍の手を必要としない仕事が多いだけだとも考えたが、それを抜きにしたとしても、内番に励む刀剣達の声を遠くに聞きながら、い草の匂いが漂う閑静な部屋で、物静かな主と過ごす時間――なにより忙しない業務に取りかからず、のんびりしながらおまけに居眠りなんかができるとしたら、これ以上の天職はない。
確信した明石は、両手を組んで天井に向かって伸びをするに音もなく近づく。
「お疲れさんです」
肩口から顔を出して後ろからそう声をかけると、の肩がビクリと跳ね上がった。反射的に素早く振りかえって距離をとった彼女は明石の姿を認識すると、数拍置いた後真ん丸に見開いた目を一度閉じて胸を撫で下ろした。
「国行さんですか」
「自分以外誰がおる言うんですか。今日の近侍でっせ」
「ごめんなさい。いきなり近くで声がしたので、びっくりしまして……」
「そりゃすんません。仕事、終わらはったんですか?」
「はい。とりあえず、一段落つきました」
の背後で積み上がっている紙の束を見て尋ねる明石は、ようやったもんやで、と休息もとらずに仕事を片付けることだけに気を注いでいた彼女に改めて感心する。
「……いやいや、ほんまできる人ですわ」
「いえ。結構時間はかかってしまったんで」
「自分、ただの置きモンでしたな」
「すみません。今日は近侍の方にしてもらうことが少なくて……」
「ああ、別に文句と違うで。……普段は近侍の仕事っちゅうんは多いもんなんですか?」
「そうですね……基本、私の身の周りの補助に加えて、政府からの伝達を受け取ったり、刀装を拵えたり、任務の管理をしたり、稀にですが私の代わりに部隊に指示を出してもらうこともあります。私が会合や下町に出る際には共もしてもらいますね。――出陣が活発になってきたらこれが更に忙しくなります」
明石からの質問につらつらと答えを述べたは、眼鏡の奥で瞬く赤と黄緑の瞳を見て聞き返す。
「やる気をなくす回答でしたか?」
「いや、自分元々やる気とかはないですけど。せやなあ、やること多いんは性に合わん言いますか……」
「内番のほうが気が進みますか?」
「そらないです。馬当番も畑耕すんも手合わせすんのも汗水垂らしてナンボやさかいになあ、あれは自分には向いてまへんわ。それやったら主さんと休み休みで静かに仕事してるほうが何倍もええです」
せやから自分、これからも主さんの近侍に立候補しよ思てるんですけど、傍に置いてくれます?
働くことに対する己の姿勢は包み隠さず、飄々とした口調でを見つめながら言う明石。清々しいほどに真面目さが欠けたその態度に、は苦笑いを浮かべる他ない。
「き、基本は当番制なので、」
「あかんのですか?」
「あかん……わけでは、ないんですけど」
若干明石の訛りがうつった喋り方で、やんわりと肯定を濁す。流石にまだここの本丸に来て日が浅く、おまけに労働に対する意欲が薄い明石国行を、今後の近侍として自分の一番近くに置くことをこの場ですぐには決められない。前者は月日を重ねていけば勝手が分かってくるだろうが、後者は彼の元々の性質なので根はどうすることもできないだろう。加えて、何事も経験だと深いことも考えずに了承すれば、の生真面目な初期刀である蜂須賀虎徹が彼女に軽い説教を垂れるのは目にみえている。
「……また考えておきますね」
「ええ、期待しときますわ」
『ちゃんと考えなければだめだよ』という黄金を纏った藤色の優しく諭す声が脳内に響き、最終的に結論を口にしない、実に便利な一言で話題は閉じられた。――会話が途切れ、彷徨った視線が行き着いた先は机上に置いた時計。秒針が差す時刻を見て、もうじき昼餉の時間だなという考えに一度至ってしまえば、急にお腹が空いてくるのだから不思議だ。まだ若干間はあるが。
「お茶の用意をしてきますね」
どうも口寂しさが拭えずどうしたものかと思ったら朝餉以降、飲み物すらも口にしていないことに気がつく。いつもなら仕事を始める前に部屋に持ち込むのだが、今日はそんなことに気がまわらないくらい書類を片付けることに必死だった。
側の机に手をつき、立ち上がろうと足に力を入れる。――しかし、長時間正座していたせいで酷く痺れてしまったそれはの思う通りに動かず、よろよろとおぼつかない様子で膝が伸びたあと――一歩を踏み出そうとした瞬間、全身はバランスを崩して前方に倒れこんだ。
「、あっ」
「おっ……ととと」
なす術なく畳に吸い込まれるかと思いきや、咄嗟に動いた明石の腕がその体を抱き止めた。細身の体格でありながら、ふらつくこともなく、体重を預けるをしっかりと支える。
「す、すみません」
――倒れた先、眼前には男性らしい硬い胸板。まだじんじんと痺れる両脚は、力を入れるとなんともいえない耐えがたい感覚が走った。故に自力ですぐさまそこから退くことができず、悪いと感じながら遠慮ぎみに謝罪の一言を呟く。「ごめんなさい、もう少しこのままで……」こんな醜態を晒すならこまめに体勢を変えておくべきだったと心中で後悔するが、時すでに遅し。新人さんに情けないところを見せてしまったと僅かに表情を崩して落胆するは、しかし、ずっとこのままではお互い気まずかろうと――礼を口にするためにも、ゆっくりと頭を上げた。
「……」
案の定、近い距離。自分より低い位置にいるを視界に収めるため、下を向いていた明石と目の前で視線が交じり合う。心臓が一度大きく跳ねるのは不可抗力といえた、が、それに浸るよりも他にの気を引いたものがあった。――瞬きもせず見開かれた二色の瞳。レンズ越しにこちらを見ている丸い両の目は、見たこともない生き物と邂逅した瞬間のように微動だにせず、じっと真っ直ぐにを見つめていた。――――それを隠す瞼が動いたのは暫し後のことで、盛大に息を吐き出した明石は、の肩に手を置いて自分の体から離すと、糸が切れたかのように頭を項垂れさせた。
「……国行さん?」
自立し、大分回復した脚を擦りながら、明らかに様子がおかしい明石を見てが疑問符を浮かべる。その声がしっかり届いているのかいないのか――片手で顔を覆う明石は、今一度大きくため息をついた。
――なんや、これ
左胸が激しく脈を打つ。全身に送られる高い熱を持った血は冷静な思考さえも溶かし奪う勢いで身体中を駆け巡っていく。加速する鼓動の音は木霊するように鼓膜に響き、逆に外界の音声はほとんど届いてこなくなる。――それと同時に、体のどこか奥底から抱いたことのない熱い感覚が這い上がってくるのが分かり、沸き上がってくる意味の分からない感情と共に脳で制御することを理性が強いる。
思い出されるのは、今の今まで触れていたモノの感触。
汗のにおいを漂わせた無骨で逞しい強固な肉ではなく、柔らかい二つの丘と柔軟で細い肉体――加えて鼻腔をくすぐる甘い香り。
再び思い起こせば、先刻まで凝視できていたどころか彼女の着物さえも直視できなくなり、戸惑いと心配の表情を滲ませるを一瞥することすらままならず、ただ障子戸に歩を進めることしかできなかった。
「あー……」
やっと絞り出した声さえ熱を持ってるような気がして、また自然と体温が上がる。
「自分がお茶、持ってきますわ」
「え?」
「ああ、あと、さっきの近侍立候補の話は、なしで」
「はい?」
「いや……なんて言うんか分からんのですけど、これ、多分あかんやつですわ。自分、ニンゲンの男の体持ってまだ間ぁないんですけど、……こりゃあかん。あかんで。あかんわ」
「あの、国行さん……?」
「ほんまに堪忍や。まさか自分が……とか、思いもせんかった」
「あの……」
「ああ、すんません。自分は大丈夫なんで。けど一回頭冷やしてきますわ」
――主さんのためにも。
ほぼ一方的に早口で喋り終えた明石は、一回首を傾けてを見ると、廊下に出て後ろ手で戸を閉めた。
一人ぽつんと取り残されたは、明確に挙動がおかしくなったにもかかわらず具体的なことを一切語らずに場を去った明石を訝しむ。戻ってきたら語ってくれるところまで聞き出そうと心に決めると、部屋から少し離れた広間の方から、正午を知らせる時計の鐘の音が聞こえてきた。
バタバタと庭や廊下を駆ける音。昼餉だ休憩だと騒がしく集まってくる内番をしていた刀剣たちの声。両方を意識の片隅で捉えながら、零されるのは本日何度目かも分からない深い深い溜め息。
――めんどい体やなあ……
――あの娘の近侍は今までどうしとったんや
――……
――無理やろ。一日中他の刀剣が寄り付かん部屋で二人っきりはあかんわ
――あかんわ…………