純白が舞っていた。風に煽られ枝から身を離す桜の花弁と共にふわりふわりと踊る姿は、神とされる存在が作り出す光景としては優美を地で行く眺めであった。――纏う真白の着物に泥や藻が付着していなければ、の話だが。
鍛練所にて、開口一番。
陽気な一声を放って私の前に顕現した鶴の名を冠する太刀の青年は、自分の手足をまじまじと目に焼きつけ、両目を丸くして数回の瞬きを繰り返すと――自身に与えられた体が鋼で構成されたそれでないと確信するや否や、話を始めた私の横をすり抜け、勢いよく庭に飛び出して行った。
共に新入りを出迎えにやってきていた近侍がその行動を抑止しようと一歩を踏み出したが、私が腕で制すると静かに後ろに下がった。――今まで私が降ろしてきた幾人の付喪神達も、具現化してすぐは、人の体にばかり興味がいき私の話も馬耳東風だったり、自由に動く足でふらふらと何かに吸い込まれるように歩き出したり、今の鶴丸国永のように無意識に突き動かされて駆け出して行ったりと、様々な反応を見せたものだ。五体を得た生き物として最初に感じるものは後に鮮明な不二の記憶となるだろうと、制止を行わず見守ってきたが――そんな話をすると、隣の近侍は僅かに顔を顰めて肩を竦める。理性が取り払われた行動は後々になって思い出すと頭を抱えたくなります、と。目を伏せるその様子は心からの嘆きだと分かり、私は苦笑する。しかし、彼は新たに体を得た同類に口を出すことはなく、庭に立った白の背を、やれやれと言いたげに首を振って私と共に見守る。
ほとんど咄嗟の行動だった。忙しなく首を振って辺りを見回し、広がる景色を黄金の瞳の中に映す。――閑静な佇まいの御殿を。芽吹く桜を。波紋の浮かぶ水面を。透き通った青空を。視界に飛び込んでくる一つ一つを全身で受け止めるように、じっと立ち尽くした後、開いた口から零れたのは深い深い溜め息。ゆっくりと穏やかに肩が下がれば、己のしたことながらこれまた不思議と唇に指を当て、恐る恐るといった風に人差し指をなぞらせる。続いて規則正しく呼吸をする胸に手を当て、くしゃりと着物を握り込むと再び肺から多量の空気を吐く。同時に閉じるのは瞼。心臓の上で重なった手は、幽かな振動を感じとる。生を与えられている証拠であるその音は無機物だった己に言葉もなく語りかける。自分は確かにここにいるのだと。この時の中に形を持って存在しているのだと。冷たい刃ではなく温かい肌が脳に、思考に、意識にただ一つの事実を伝えてくる。
目を開ける。
目映い光に包まれる。数秒前に見ていた景色は変わらずそこにあった。歩いてみる。柔らかな雑草を踏みしめる音が履物の底から聞こえる。薫る草木に顔を近づけ、口を閉じて鼻をならす。葉が頬に触れた。くすぐったくて顔を背けるとその先でまた薄い葉が頬を掠める。手で軽く払いのけると水分を含んだ瑞々しい感触が指先に当たる。これが醸し出す空気を吸い込むといくらか気分が落ち着くことを今知った。思わず掌の中に閉じ込めて茎から伸びるそれを引っ張ると、ぷちっと小さな音がして簡単に元あった場所から離れてしまった。なんとなく罪悪感を覚え、手に持つ千切れた緑を着物の袖口へ入れると、次に目線がいったのは――池。
全体を見回したあと、膝を折り、怖ず怖ずと水面を突つく。そうっと指を滑らせると、尾を引いて水が付いてきた。――ひんやりとしている。更に残る四本の指も突っ込み、手首まで沈めると無造作に掻き回して波を立てる。動きを大きくすればするほど激しく飛沫が飛び、顔に、髪に、服に、装身具に、冷たい水が降りかかる。同時に、近くで浮いていた藻も巻き込まれ、一緒になって宙へ舞う。ここの住人である鯉が肩幅狭そうに端に寄ったので手を出して見れば、布は肌に張り付き、吸いきれなかった水はぽたぽたと地面へ落下した。若干重くなったうえ、空気の通りがなくなり、べったりと手にくっついた手袋。煩わしさを感じ手首から先を振るが、水滴が散るだけで元通りにはならない。なんだか気持ちが悪い。今すぐ外してしまいたいと思う。よくわからないが、好きな感触ではない。羽織で包んでみても雫がなくなるだけで、ほとんど変わりはしなかった。
僅かに眉間に皺が寄るが、しかし、気分が落ち込む暇はない。腰を上げ、他に何かないかと気が向いた先は、丁度今が開花時期である桜の木々。美しい桃色の花を咲かせたそれに誘われるかの如く近づくと、自分の背より少し高い位置にある枝に向かって手を伸ばす。
絵になるな、と桜と共に視界に収まる雪色を見て、私の口から意図せずそんな一言が漏れ出た。好奇心に背中を押され目に映る物へ転々としていた体は、今は静かに木の前に立ち、眼前の花に見入っている。――その横顔たるや、慈しみを湛えた眸と緩められた口角を浮かべているものだから、思わず引き込まれてしまいそうになる。
走った際の勢いで跳ねた泥と、着物の袖口から覗く萎れた草と、服の所々に飛んだ藻や池の水と。それらが気にならなければ、額縁に入れて飾っても様になるだろう光景だ。
強い風に舞い上げられた花びらに釣られて自らも肢体を動かし始める鶴を遠巻きに眺めていると――――同じ一部始終を見ていた隣の近侍が感慨深げに言葉を落とした。
僕も今となっては当たり前のように感じていますが、自分の意思で動かすことのできる身というのはつくづく奇妙なものですよ。中途半端にもどかしかったりもしますしね。紅梅色の髪の毛先を指で巻きながら物憂げな表情をする打刀。そういえばこの人も己を鳥と自称していることをふと思いだし、それがただの物の例えだと理解していながらも――あの鶴に親近感は湧くかとなんとなしに問いかけてみた。すると返ってきたのは、まあ元主の一人が同じ方でしたしね、という本日初耳の情報。……なんだ、面識があったのか。それじゃあ鶴丸国永に新人指導をするのは貴方でいいかな、と言うと、いきなり仕事が増えた近侍は何か発言したげに苦い顔をする。
愚痴の一つや二つが投げられるかと思いきや、投下されるのは重い息だけ。翠と碧の目が不承不承といった具合で逸らされると、タイミング良く、桜と共に踊っていた鶴が眩しい蜜色の双眼を携えて私の下へ戻ってきた。
――きみだな。
いつだったか。探索と称し本丸を冒険して遊んでいた短刀たちのように自然と仲良くなった証拠の服を纏いながら、鶴丸国永は、目一杯に瞳を輝かせて私を見据える。
正面に立った彼が切り出すは一言。「改めて」。畏まった表情をつくり出すとその場に恭しく片膝をついて頭を垂れた。「鶴丸国永。平安より授かったこの身、此度はきみに捧げよう」先刻までの幼気な様子とは打って変わって、語る声は低く、穏やかに。「その御手に賜った僥倖、確かに己が魂に。――これを萌芽にきみとこの先の途を歩めること、」白銀の髪が揺れる。下を向いていた琥珀色と視線が交わう。「幸甚に存じる。どうぞ宜しく頼む」
全てを紡ぎ終えた顔がもの柔らかく綻ぶ。
白刃に宿ったしらとりの青年は、確かにこの世を愛していた。