「…………」
何度めだろうか。指の間をすり抜けて落下し、机の上で跳ね、畳をコロコロと転がっていくそれを眺めるのは。同じミスを繰り返せば繰り返すほど拾い上げるために伸ばす手は心持ち重くなり、吐く息もまた、深いものになっていく。
「……なあ」
再び右手の中に収めた二本の箸を見つめながら――この本丸の新顔である鶴丸国永は、机を挟んだ向かい側にいる主・に話しかける。
「ん?」
「持ち方をもう一度見せてくれないか」
「いいよ」
隠しきれない沈んだ感情が声色に滲む。
積極的に手助けを行わなかったも、こればかりは渋ったりあしらったりせずに了承し、机上に並べていた自分の箸を手に取る。
「こう」
三本の指に挟んで、あえてカチカチと音を鳴らして開閉させる。その様子を真剣な表情で観察する鶴丸は、見よう見まねで形を真似しだす。人間であるにとっては幼い頃から染み付いている動き。一日たりともかかしたことのない習慣の一つだ。しかし――幾百の時を経て、正に今日、人間の体を与えられた刀にとっては器用さを求められる箸の扱いというのは、非常に難易度の高い技であった。
鶴丸国永が肉体を得て暫く。
鍛刀されてすぐ、自由に操れる体で庭を駆け回り、真っ白な着物を汚したのはほんの数時間前のこと。本丸の案内や他の男士たちとの顔合わせを近侍の宗三左文字と共に終了させ、現在は内番用に準備されていた衣装を身に纏い、と部屋で二人、夕餉に供えた箸の使い方を練習している。始めは手取り足取り指導をしてもらっていたが、途中、コツが掴めた!と意気揚々に息巻いてからはには傍観に徹してもらい、一人でひたすら黙々と励んでいた。が。なかなか上手くいかないことに痺れを切らせ、口を挟まず見守っていたに援助を求めた。
「みんなも簡単にはできなかったから、焦らなくてもいいよ」
食い入るように手本を見つめる鶴丸に、はそんな一言をかける。しかし、真面目な顔で唸る鶴丸の耳には届いていないようで、手を止める様子はない。左手も使ってみたり、落としそうになれば慌てて支えたりと、二本の細い棒に翻弄されてる姿は、腕慣らしで挑んだ手合わせで要領よく模擬戦を繰り広げていた体と同一のものだとは思えない。
――戦闘能力だけ、か……
奮闘する太刀の青年を眺めながら、今まで自分が目覚めさせてきた何人もの刀剣男士たちのことを思い出す。
――刀剣男士。審神者なる者から人の体と自ら戦う力を与えられ、この世に具現化された付喪神。歴史の中で振るわれた記憶や人斬り道具としての本能が彼らの力の源になっているのか、誰もが体を得た直後でも刃を振るい果敢に戦うことができた。反面、食事や風呂、書き物や睡眠といった戦闘には関係のない日常動作――日々を送るために必要な人間らしい挙動に至っては、まるで幼子のように拙くしか行えず、慣れるまで毎回こうしてが直々に指導をしていた。
中でも、刀剣男士と、両者が一番苦労したのが食事だ。箸の使い方云々の前に、最初に口にするものは飲み込みやすいように柔らかく、味も好き嫌いが別れず、且つ日本人に親しみのある食べ物として、決まって白米を出すのだが――食べるという行為自体が初体験なのもあり、上手く嚥下できなかったり、舌が感覚を好まなかったりして拒否する刀剣男士は少なくなく、月日を重ねる他に解決方法がなかった。他の食材や献立に関しても概ね慣れるまではそういった感じである。
腹が減っては戦はできぬ、というように人間と同じ肉体を得たからには食事を摂らなければ戦闘どころか普段の生活にも支障が出る。なかなか人の食べ物に馴染めない刀剣男士用に、最低限の栄養が摂取できるよう政府が開発した"仙人団子"が無ければ事態はもっと深刻化していただろう。
幸い鶴丸は米を一口食べるやすぐに気に入ってくれたので、今の問題は箸の扱いだけなのだが――完璧に習得するのにはそれなりの時間がかかりそうだ。
「きみ」
思考を巡らせていると、鶴丸の低い声で意識が眼前に引き戻される。見ると、自分の茶碗をすっとこちらに差し出して置く彼が。
「これを箸で摘まんでほしいんだが」
「……?」
突然の頼み事に首を捻る。だが、言われた通りに、まだほとんど手がつけられていない白米を一口分、持っていた箸で摘まんだ。――瞬間。それから?と尋ねる直前に、机に両手をついて上半身を乗り出した鶴丸が先端に乗ったそれにぱくりと食いついた。
「……………………」
「…………」
すっ、と後ろに下がり何の疑問も抱いてないような顔で咀嚼をする鶴丸。咄嗟に出てくる言葉もなく、その様子を半開きの口でぽかんと見つめるは、数拍置いた後、不意打ちを仕掛けてきた白い青年の名を呟いた。
「鶴丸」
「考えてもみてくれ。俺は腹が減ってる。が、こいつは上手く扱えない。かといって手をつけるのは品がないだろう」
「言ってくれれば慣れるまで私が食べさせてあげるのに」
ちょっとびっくりしたよ、と。弁解を始める鶴丸に対してそう言うと、今度は彼の金色の瞳が丸く見開かれた。同時に、意も介さぬ表情をしていた顔が僅かに伏せられる。
「……始めに言ってくれ」
「ごめん。あんまりにもやる気だったから……。それに、幼子みたいだと嫌がる子もいて」
「そうか。俺は……まあ、今の状況じゃあ仕方がないことだからな、気にしないぜ」
「みたいね」
刀剣男士によって反応は様々だ。外見年齢が高ければ高い男士ほど、幼い子供のように覚束ない己の体に嫌気がさすことが多く、抱える葛藤も多い。長い歴史の中で人の営みを見てきたからこそ、人の価値観に囲まれて歩んできたからこそ、同じ見た目の人間なら簡単にできるはずのことが、自分にはこなせないことに意気消沈する。比較的素直に甘えてくれる短刀の中にもを頼りたがらない男士は存在するのだが、如何せん初めて動かす人の体だ。一人で完璧にこなすことなどできる訳がなく、や先輩の男士に手伝ってもらいながら一つ一つ習得していく。
新しい刀剣男士を本丸に迎えた時、が一番最初に気にするのは、日常を送る上でかかせない行動をどれだけ早くにマスターしてくれるか、である。
他の男士と諍いもなく仲良くしてくれるだろうか、かつての主に未練があっても歴史修正主義者との戦いを前に振るう刃は鈍らないか、といった悩みよりもまず先に心配するのは人として生活する能力を早々に身に付けられるかに尽きる。
これによって本丸の稼働率が大幅に変わってくるのだから。
――思い出されるのは、審神者として活動を始めたばかりの頃。部隊が揃うまで初期刀である山姥切国広と二人三脚で歩んだ日々はなかなかに濃いものだった。食事に睡眠、内番の指導などはもちろん、裸の付き合いもした。二人して風呂場でぎゃあぎゃあと喚いて湯と泡を被り、しっちゃかめっちゃかになりながら初めての湯浴みを済ませたのは古い記憶ではない。疲れをとるはずのそれで、一日働いた分以上の疲労が溜まったのは今では良い思い出である。大変だったが、その一件で互いに吹っ切れ、余所余所しさがなくなり、顔を一度も合わせてくれなかった山姥切も真正面から向き合ってくれるようになった。――――と言ったら、時間をかけて機会を設け、やっとのことで絆が深められたかのようだが、実際は出会ったその日の出来事なのだから、考えると改めて他言できない内容だとは思う。
現在は彼女が踏み込みにくい部分は山姥切をはじめ、本丸の先輩男士たちが手伝ってくれるので、短刀以外と一緒に風呂に入ったり寝たりすることはなくなったが。
閑話休題。
人間の習慣を"身につける"という課題を与えられ、鶴丸国永という刀はそれとどう向き合うかと不安だったが――物事に積極的に取り組む姿勢と、長い時を生きてきた中で培った余裕を持ち合わせた彼は比較的人の体を歓迎してるようで、何事にも興味を持って手を伸ばす好奇心は短刀の少年達を彷彿とさせた。時折饒舌になったり、意地を張らずにを頼ってくる年長らしい姿と合わせて、非常に柔軟性の高い男士だということは明らかだ。
箸の扱いも近い内に覚えるだろうと、腰をあげて隣に移動してきた鶴丸を見ながら考える。
まだ距離感というものを掴めていない彼が近い位置で接近してきてもは顔色一つ変えず、落ち着いた一言をかける。「はい」白米を乗せた箸を口元へ持っていけば、鶴丸は首を伸ばして先端に口を近づける。
雛鳥みたいだな、と含んだ白米を嚥下し次を急かすような視線を注いでくる鶴丸にそんな感想を抱く。
自分より体も大きく、中身も外見も年上な青年を相手にこんなことをする日が来ようとは、人間社会で普通に生きていた時は考えもしなかった。刀の付喪神とはいっても立派な男性の身形をしているのだ。リードしなくてはいけない立場にいる自分が緊張して指導が進まなかった頃だって当然あった。それを思えば今は随分手慣れたもので――ただ、そのお陰で異性との距離の図り方に狂いが生じ、会合や演練で対面した男性審神者を相手に無意識に思わせ振りな接近をしてしまったこともあった。
――世間で培った常識が薄れていく。自分以外の人間がいない場所で日常を送っているとだんだんと刀剣男士達の感覚にのみ込まれていく。現世との齟齬を一つ一つ自覚していく度に、己を律し、社会で当たり前とされるルールを再び思い出して頭に叩き込むのだが――――
「…………」
「、もういいの?」
あと二口三口ほどの量を残して、口を開かなくなった鶴丸。は持っている箸を引っ込め、茶碗と一緒に机の上に置く。両手が解放されたその瞬間、上半身に温かい重みがのしかかってきた。「……鶴丸?」一体何が動機なのか。両腕を腰に回し、顔を首元に埋め、体重を預ける形で抱きついてきた鶴丸には、どうしたの、と語りかける。――いきなりのその行動に対しても全く速度を上げていない自分の心臓に諦めのような感情を染み込ませながら。
「俺は人になったんだな……」
の心情など露知らず、白銀の頭が感慨深げに呟く。
「そうだね」
幾分か速度が落ちた言葉を聞いて、お腹が膨れて眠たくなったのかなと考えるは、鶴丸の頭にそっと手を置き、明かりを反射する目映い毛髪を撫でる。
「きみはこれからも俺に、色々なことを教えてくれるのか?」
「うん。……でも、私より貴方のほうがずっとたくさんのことを知っている気がするけど」
「そうだなあ。見てきたものはきみよりも遥かに多いが――"この身"が人として知っていることは、まだ、ほんの僅かだ」
息が一つ、落ちる。
熱も音も一瞬にして霧散してしまったが、首にかかったそれは甘えるようにの肌に絡み付いた。
「――ああ、楽しみだ。君が与えてくれるものも、俺がそれにどんな感情を抱くのかも……想像ができない。全てが初めてだ。これから先にそんなものがたくさん待ち受けていると思うと……」
「目まぐるしい日々になるかもよ」
「退屈よりかずっといいさ」
「箱の中で変わらない景色を見ているだけの日々よりかは、ずっとな」