穏やかな声で落とされた言葉を最後に、の首筋に顔を埋めたまま無言になった鶴丸。――思えば、今日一日だけで様々な初体験をし、身も心も休まる一時がほとんどなかったのだ。まだ加減も要領も掴めていない体を動かしすぎて疲れたのだろうと考えるは、愛し子を慈しむかのような手つきで色素の薄い鶴丸の髪を撫でる。
もうすぐ夕餉の時間になるが、この様子では何十人といる刀剣男士たちに囲まれて愛想を振り撒く元気もなさそうだ。

宗三左文字を呼んで、湯浴みを教えさせてから今日は寝床に行くよう促そうかと考えていると、厨のほうから、よく通る威勢のいい声が聞こえてきた。
夕餉を知らせる本日の食事当番・堀川国広の高めのアルトボイスがの耳に届くと同時に――糸が垂れた操り人形のように動かなくなっていた鶴丸が、ガバッと勢いよく顔を上げた。


「…………」


どこか遠くに神経を集中させるように、真面目な表情で口を噤んだまま鼻をスンスンと鳴らす鶴丸。
小さく首を左右に傾げ、一際大きく息を吸ったかと思うと、薄い肉に覆われた喉仏がゆっくりと上下するのが見えた。
緩んだ口元から赤い舌がチロリと身を出し、桃色の唇の間を這う。


――……。
――まだお腹空いてるのかな


部屋に漂ってきた食欲を煽る匂いを嗅ぎながら、鶴丸の一連の動作を観察していたは、言葉を発さない彼の心情を探る。食欲という概念にもまだ不慣れな体。しかし、人として、生き物として意識が本能的に欲しがっているのだろう。
落ち着きなくうずうずとした様子の鶴丸に手を差し伸べたは、よろける彼を支えて立ち上がる。


「夜ご飯、いこっか」


障子戸を開け、少々長い廊下へ踏み出す。
わいわいと。がやがやと。賑やかな話し声が集まっていく場所へ、骨張った手を引きながら。





鶴丸国永は数百という年月を歩んできた刀の中でも、かなり齢を重ねている部類らしい。
――にも、拘わらず。と、疲れの色を滲ませた近侍の宗三はに対し、愚痴を零した。

夕餉ではかつての同胞たちを前にして気分が乗り、薦められるがままに胃に、ものを流し込み続けた。加えてまるでここの本丸の古株ですと言わんばかりに輪の中心になり、周りを盛り上げた。その後は宗三に連れられ、興奮冷めやらぬまま初めての湯浴みを済ませたのだが――言わずもがなその際も常に溌剌としていたらしい。寝巻きに着替えたあとは、また他の男士と騒ぎだす前に、床について寝るよう半ば強引に部屋に押し込んだ――――。


側にいるだけで体力が削られます、と力を失った声で苦々しく呟く宗三の影が行灯に照らされて揺らめく。
どれだけの疲労が蓄積しているかは声量だけで明らかだ。

鶴丸たちが床に入って暫くすると消灯時間は訪れ、一日の報告のため宗三だけはのもとへ来たわけだが、これ以上長居させるのは気の毒な状態であると判断したは、彼を労る言葉をかけてから下がらせた。

後日に何か褒美を……と思案する傍ら、年長者であるはずの鶴丸国永の、想像以上に生き生きとした底無しの活力に感心する。
同じ平安生まれの獅子王も、鶯丸や三日月と比べれば活発的なほうだが、鶴丸は持ち前の好奇心の強さがそれの比ではない。

短刀たちに負けず劣らず明るい性格。しかし、時折、年相応の落ち着いた顔を見せる。煌々ときらめく太陽にも、優しく周りに光を与える月にもなれる。
鶴丸国永。この一振の刀が今後この本丸でどのような存在になるのか。期待を胸に閉じ込めて布団に体を潜らせると、間もなくして睡魔が襲ってきた。







「……んん……っ」


眠りについてどれぐらい経った頃だろうか。辺りがすっかり静まりかえった夜更けに、耳にかかる速度の早い呼吸音で目が覚めた。
全身にリアルな重みを感じ、意識が強制的に現実世界に戻る。いつもはない感覚に疑問を抱きながら、小さな唸り声をあげて身動ぎするは、四肢が自由に動かせない状況を寝ぼけ眼で確認する。――まだ頭がぼうとしているお陰で、いまいち状況が把握できないが、「……きみ、きみ」という低い男の声を聞いた瞬間、サッと血の気が引いた。


「っ!……!!?」


――、え、……?
――だ、だれ……!?


息を呑むと同時に体が強張る。カチリとスイッチが入るかのように頭が覚醒し、今起こっている事態を分析し始める。
夜中。自室に侵入者。おまけに自分は布団の上でその当人に拘束されている。
恐怖が絶頂に達するのには十分な要素が揃っている。

――悲鳴をあげる直前。の視界に入ったのは、暗闇でもよく目立つ白い頭。



「きみ、助けてくれ。……助けてくれ、頼む」


にのしかかる形で。彼女を見下ろし弱々しい声音を落とすのは――昼間の活気を失った、鶴丸国永だった。


「――――……つ、るまる?」
「ああ……そうだ。鶴丸国永だ」


激しく脈を打つ心臓の音が体内に響く。恐る恐る思い当たる人物の名前を呟けば、頭を垂れた白は、消え入りそうな声で肯定の一言を口にした。
どんな表情を浮かべているのかまでは分からないが、明らかに意気消沈した雰囲気を纏う侵入者――もとい鶴丸に、はとりあえず上からどくよう告げる。


「、すまない」


指摘されてようやく自覚したのか、鶴丸は申し訳なさそうに謝罪をする。仰向けのを薄い布団と一緒に力強く抱き締めていた腕を放し、畳へと移動する。


「どうしたの」


変わらず項垂れたまま、その場で足を崩して座る鶴丸に、心の落ち着きを取り戻してきたが尋ねる。
――数拍の間を置いて。片手で頭を抱えた鶴丸が、静寂に溶けそうな声量でぽつりと零した。


「恐ろしい……んだろうな」
「?」
「何処かへいってしまいそうなんだ、俺が」
「……?」
「いや、理解はしてるんだ。人の体には、"睡眠"が必要なんだろう?昔からその営みは……見てきた。……俺も、このヒトガタの器を手に入れたからには、眠らないと……生きていけないん、だろう」


肩を大きく上下させて大きな溜め息を吐いた鶴丸は、どこかたどたどしくも「けれど、な」と話を続ける。


「それに従って、意識を手放したら、俺は俺でいられるのか?」
「……」
「そもそも、次に目覚めることは、あるのか?」
「……」
「……このまま死んだりはしないよな?」
「…………」


冷静さを保っているようで、その実、行き場のない感情を無理矢理抑え込んでいるのだろう。仕草に動揺が滲んでいる鶴丸の――縋るような声色を、言葉を、は黙って反芻する。
そして布団から出ると、傍にいた鶴丸の白い頭髪に腕を伸ばし優しく撫でたのち、そっと背中に両腕をまわして抱き寄せた。


にとって、"これ"は初めてのことではなかった。
睡眠という行為、本能に抵抗を感じ、夜な夜なの寝室にやってくる男士は少なからずいた。そのほとんどは幼い短刀の少年たちだったので、赤子をあやす要領で簡単に寝かしつけることができたのだが――比較的人格が形勢されきっている鶴丸に対しては、どう宥めればいいものかとは悩む。


人間にとっては、物心がつく前から体に染み付いている習慣。しかし、人になったばかりの彼らには全く馴染みのない、知識でしか知らない"概念"だ。
だんだんと意識が飛び始め、自分の意思や思考を自身で制御できなくなり、沈むように脳が動かなくなっていくのを感じるのは、……恐らく、恐いものなのだろう。
大方は、うつらうつらとやってくる心地よい眠気に身を任せるのだが、男士も人間と同じ。"捉え方"や"感じ方"はそれぞれ違ってきたりする。過去が関係していたり、ふと心の中で疑問が芽を出したり、理論的には述べることができないけれど気持ちが拒否反応を起こしたりと様々だが。

にとっては抱いたこともない感情なため、そんな男士たちの不安を取り除こうにも、ただ「大丈夫だから」と慰めてやることしかできない。



「……夜は、音もなにも無いな」

自分より一回り以上も小さいの体を抱き返しながら、鶴丸が呟く。


「冷たくて、ざらざらしてる」
「……。今日は、一緒に寝る?」
「きみ、寝てるあいだに死んだりしないか?」
「しないよ」


冗談が一切混ざっていないトーンの質問に、は迷うことなく言い切る。
死は永遠の"眠り"だとはよく言うが、死亡と睡眠の知覚の違いなんて、無論死んだ経験なんかないには分からない。しかし、まだ老衰する歳でもないし、特段病気も患ってはいない。
これは生きている限り続けていく、習慣の一つなのだ。
憂うことなど、ないのだ。


「おいで」


腕を解いて掛け布団を半分剥がすと、『ここに来て』という意味を込めてぽんぽんとシーツを叩く。
数秒間。無言で示された場所を見つめた鶴丸は、細い体躯をに密着させると、布団を整えた彼女と共に横になった。
向かい合う形で一つの寝床に収まる――人間の男女ならば桃色の雰囲気くらい漂っていただろうが、互いにその気がない二人のあいだには穏やかな静寂だけが訪れる。


「大丈夫」


「大丈夫、大丈夫。」


「貴方も、私も、朝になっても変わらず此処にいるから。朝日が昇ったら、また逢いましょう」


「おやすみなさい」




カチカチと時を刻む、控えめな秒針の音が部屋に響く。
撫でているうちに、規則正しい寝息を立てて眠りについた鶴丸の寝顔を、暗闇に慣れた瞳に写す。
この刀にとってまだ始まったばかりのこれからを、ぼんやりとした思考で考えるは、鶴丸の白銀の頭を最後にひと撫でしてから瞼を閉じる。


しっかりと熱をもった付喪神の温かさに触れる夜は、しんしんと過ぎていく。