気づいたのはしばらくしてからだった。
そういった報告も聞いていないから、恐らく俺達と出会うより前にすでに嵌められていたのだろう。己の身には爪先まで気を使う半面、他人の細かいところまでは観察しない性分故に見逃していた。
主の左手薬指に静かな輝きを放つ指輪が存在していることに。
「気づいてると思ってた」
大きな宝石が嵌められてるわけでも目をひく装飾がされてるわけでもないが、主と誰かを深い絆で結んでいることをしっかりと主張している“それ”。主はそれを愛おしげに指で撫でながら言う。
「貴方は聡いものだとばかり」
「そうでもないよ。他人を見る暇があったら自分の身形を気にしてるほうだしね」
と言っても主のことはそれなりに見ていたつもりだった。
主が審神者として一番最初に目覚めさせた付喪神である俺は、無論のことこの本丸の中で最も主との付き合いが長い。その分誰よりも多く主を見ていて、知っているはずなのだが、どういう分けか見落としてしまっていたようだ。
それが目立たないと言ってしまえばただの言い訳にしかならないのだけど、実際ごくごく自然に主の指に嵌められている“証”は何の違和感もなく、意図を持って注視しないと疑問も湧いてこないくらいに自然とそこに存在していた。
ふと目にして、それがある場所と指す意味を思い出してやっと、あ、と気がつくような。
相手がどんな人物なのかは分からないが、少なくとも美的感覚だけは良いのだろう。主の指に収まる主張の激しすぎない指輪は、物静かで品のある主にとてもよく似合っていた。
自分の薬指を慈しむように見つめている主の表情に、思わず俺は惹き込まれてしまう。その優しげ視線が、普段彼女が幼い短刀達に向けているものでも、傷を負って帰ってきた俺達を労るものでもなく、似たような、また別の感情を含んでいるのだろうことを想像するのは容易だ。それを踏まえて今、沸々と湧いてきている自分の欲望について思考する。
俺は刀剣だ。
今は人間と同じ体を持ってはいるが、本質は人間と全く異なる。自由に物に触れることができ、主と同じ言葉を喋り、喜怒哀楽の感情があるが、そういった人の体を持つうえで“当たり前”の機能を備える一方、人間ならざる者として、万人とは決定的に違う部分が数多く存在する。
首の皮一枚繋がった状態の重症でも三日程度で完治してしまうし(刀種によって手入れに必要な修理費に大幅な違いがあるので時間にばらつきはあるが)、見た目も歳をとらず老いを知らない。本体である刀剣がこの世に在り続ける限り恐らく永遠に生きることができる。何十年でも、何百年でも、何千年でも。破壊されてしまったらそれまでだが。
人として生を受けて育っていないので勿論人間とは物事の考え方も異なる。
今回の主の婚姻についてもそうだ。
人間同士が抱き合う恋愛観での情愛や情欲というものが俺には今一つ解らない。生い立ちが違うので解らなくて当然なのだが――似た何か、誰かを求めるという感情は理解できる。――所謂"特別"。自分が想い人の唯一無二の存在となることを望む気持ちの強さは多分人間と大差ないだろう。関係によってその根底にあるものは違うだろうが、伴侶というものはただ一人。主にとっても、主と同じ指輪をしている人物は他の何にも代えられない、代わりが利かない、たった一人の"特別"なのだろう。その点、俺は主に仕える数多くの刀剣の一人で、主の唯一無二とは遠くかけ離れている。俺と同じ立場の奴らがごろごろといるこの本丸では、とても不二の存在の座を得ることなんてできない。――羨ましい。素直にそう思う。刀剣時代よりも人間の器を持った現在のほうがより鮮明に意思があるように思える。姿も名前も知らない相手に妬き始めているのを自覚しながら、主を射止めた人間の身形を想像する。ついでに、常日頃から主に呼ばれているであろう名のほうも。……。だけど、俺としては普段から様々な刀剣と接してる主はどんな人とでも打ち解けてしまえそうな印象があるので、彼女にとっての"特別"に伸し上がる人物像がいまいち掴めない。無論、名前のほうなんて余計に。
――でも、そういえば。
俺を含む他刀剣達は主のことを多種多様な呼称で呼ぶが、名前で呼ぶ刀剣はほんどいない。前の主を呼ぶのと同じ調子で安定が主を名前で呼んでるのは耳にしたことがあるが、言ってしまえばそれだけだ。滅多に聞くことのない名前。主の、名前。
――確か
――。
――……。
心中で呟いただけだけど、なんだか違和感がある。慣れてないせいだとは思うが、主が主でないような不思議な感覚だ。主自身から名前を聞いたのは初対面の自己紹介の際が最後なので、馴染みが薄いのが否めない。
でもこれが主を表す名なのだと思うと、恐らく日常から主をその名前で呼んでいるのであろう彼女の伴侶が、また羨ましく思えた。
――羨ましい。その感情が湧き出す原因はやっぱり、主が俺にとっての唯一の"主"だからだろう。特別が欲しい。隣にいて欲しい、必要として欲しい、貴方が要るのだという言葉が欲しい、何時も共にあって欲しい。
――――最終的にはどのような離別を迎えようと、その一分一秒まで主の側にありたいと思う。前の主の死に顔を知らないからこそ、今度こそは。終焉の瞬間を目にすることで、きっと、それまでの時間がずっと愛おしくなるだろうから。
最初は名前も分からなかった感情だが、刀剣時代、様々な関係の中で人間達が愛を語らうのを見てきた身として――そして現在、そんな人間達と同じ姿を手にいれて、はっきりと“口にできる”言葉がある。
俺を選び、刀剣として再び本来の力を振るう機会を与え、必要とし側に置いてくれる主に対して、断言できる言葉がある。
俺と主にも何か形にできる証のようなものがあればと考えながら、それが常に主の体に触れていればとぼんやり思案しながら、心の底から湧き出す感情を舌の上で転がす。そして、
「主」
「ん?」
俺の呼び掛けに反応して、主が指輪から視線を外して俺を見る。主を慕う一刀剣として彼女の幸福を願うのは当たり前のことだが、今だけ――次の一瞬だけは、その伴侶のことを忘れて欲しいと願いながら、一言。
「俺、主のこと愛してるよ」
高ぶった感情は内側に留まることを知らず、開いた口から自然と零れていた。静まり返る部屋。元々主と俺しかいなかった一室がさらに静寂に包まれるのを感じる。風の音が、鯉が池で跳ねる音が、遠くの山で鳴いている鳥の囀りがやけに大きく聞こえる。
止まる時間。微笑みながら言ったつもりだったが、首から上がなんだか妙に熱くなってきたせいで、自分が今どんな表情をしているのか整理がつかない。
「…………」
……。……あれ?素直に真っ直ぐありのままの気持ちを伝えただけなのに、「愛して」なんて常日頃から声にしているのに、なんでこんなに羞恥心を感じているんだ?
ぱちぱちと。丸くなった主の目が瞬きを繰り返すのを見ながら、俺は一人で混乱し始める。
「あ、いや、その……なんていうか、うん……その、」
「……」
「事実で、でも、……え、あれ?」
どう返答していいのか迷っているのだろう、言葉を返してこない主を前に、俺は視線をあちこちに彷徨わせて意味の分からない弁解をする。よくよく考えなくても、今のこれが傍から聞けばただの、人間の男女間でよくみられる愛の告白だということに気づいた瞬間、俺の脳内はいよいよ本格的に焦り出す。
「そういうのじゃなくて、でも……えっと、愛してるのは本当で、」
「……うん」
「俺は、主を愛してる」
「うん」
「…………えーと」
「私を、主として慕ってくれているという意味で?」
「そう。……そう!」
戸惑いを滲ませた声色と目線で、主がゆっくりと俺に語りかける。未だに「あー……」だの「……うん、うん」だの変な独り言を漏らす俺を不審な目で見ることなく、ふっ、と口元を綻ばせた主は右手で小さく、傍にくるよう合図を送ってくる。俺はいつもより控えめに主に近づくと、そのまま顔を項垂れる。
「清光」
まだ熱を帯びている俺の頬を主の両手が包み込む。優しい声がかかると同時に持ち上がり、俺の顔が正面を向く。
近距離で主と、視線が絡む。
「私も貴方をお慕いしています」
――頬が溶けるように緩む。口端が綺麗な弧を描く。目尻と眉が穏やかに下げられる。黒の両眼に映るは、間抜けにもぽかんと口を開けた俺の姿。
「凛々しく気高い、私の愛刀である貴方を」
――主の中に見える俺が眼を見開くのが分かった。心臓がいつもより速く脈を打ってるのは勿論のこと、先程から体の熱が一向に下がらない。それどころか、まともな思考能力を奪うかのような上がり具合に、頭がくらくらする。
「ありがとうね、いつも」
そんな俺の容態を恐らく知らずにいる主はそっと俺から手を離すと、畏まった空気を解いて、普段通りの笑みを浮かべる。
ふと逸らした視線が時計に向いたと思ったら、「ああ、もう昼餉の時間ね」と脚を擦りながら立ち上がる。同時に遠くから聞こえてくるのは「みんなー!そろそろお昼だよー!」という食事当番・堀川国広の威勢の良い声。
「丁度だね。行こう、清光」
主が再び俺を見る。まだ熱がひいてない俺の顔は、多分、赤いままなのだろう。こんなみっともない姿、見られたくない。
「……俺、あとから行く。先食べてて」
主に背中を向けてそう返す。激しい心臓の音に掻き消されてしまいそうなくらいの声量だったので届いたのか不安だったが――――当たり前だが主にそんな音が聞こえてるはずはなく。主は俺の主で俺は主の刀。出合った頃から変わらない関係が――このまま続いて欲しいと願っての想いが、抱いたことのない感情に侵食されていく。
不安げに俺を見つめているのだろう、「清光……?」と心配しているような主の声が背後から聞こえる。
「だいじょーぶ。すぐ行くから」
右手を上げてひらひらと左右に振り、出来る限り“いつも通り”の声を出す。
「……。じゃあ、先行ってるね」
数秒間の間があった後、返答と、畳を歩く音がした。それが木板を踏みしめる音に変わった瞬間、俺は首を動かして、部屋を去る主を一瞥する。
陽の光を反射して美しく輝いた“主と誰かの絆の証”が――つい先刻まで美しいと思っていたそれが、今は何故だか恨めしく思えた。