「来てもた」
放たれたのは短い一言。
片手にはストローが刺さった紙パックのコーヒー牛乳。眼鏡越しに見えるのはいつもの気だるげな目。
「……え、なっ、」
二、三秒硬直したのち、私の口から漏れたのは戸惑いと疑問が混じった単語。思わず後ずさって足先から頭のてっぺんまでを流れるように凝視した私は、しかし、まだ状況を理解できずに「え、なんで」とたじろぎながら目の前の相手に問いかける。
「暇でしてん。なんもやることないし、寝とったら国俊にせっつかれるわで、しゃーなしに外出てきましてん」
深紫の髪。赤いピン止め。シンプルな眼鏡と二色の瞳も。――そこまでは普段見るものと同じだ。だがその下、服装はいつもの制服ではなく上下ラフな格好なうえ常に腰に差している刀も今はない。完全に日本のどこにでもいそうな大学生といったナリをした青年が、審神者としての自分が率いている刀剣男士の一人――明石国行だということを認識すると私の口から改めて疑問符のついた言葉が出る。
「どうして、ここに?」
「他に行くとこあらへんし、こっちで主さんが何やってんか気になりましたんで」
「……。そう、なんか、溶け込んでるね。周りに」
外見といい、やる気が不十分な振る舞いといい、周囲の学生たちと比べても違和感がない付喪神を眺める。一瞬誰かと思った。こうやって一般的な服を着ていると雰囲気もそれなりに変わるものだなと考えていると−―ふと、彼に会う前まで頭の中にあった目的を思い出した。
「あっ、講義!」
「?」
「ああああと三分で始まる……!!」
昼食を食べ終わって次の講義がある教室に向かうところだったことを思い出し、スマホで時間を確認すると、開始時刻まであと僅かだという事実が目に飛び込んでくる。次の時間は講義がない、とのんびりしていた友人と一緒にお菓子を食べながら雑談していた少し前の自分を責める。国行と予想もしない形で出会って足止めをくらったというのもあるが、全ての原因は私自身にある。今から会う時間に厳しい教授の顔を浮かべれば自然と焦燥感が滲んだ。
「急いどん?」
焦る私とは反対にのんきにコーヒー牛乳を吸いながら聞いてくる国行。
――ああ、そうだ。この人どうしよう。相手にしないまま帰すのもなんだか気が引ける。私の講義が終わるまでどこかで待っていてもらうのも……慣れない場所で一人にするのは色々と不安があるのでできれば控えたい。この時代のことにはまだ疎い部分がある。それに部外者だし、バレたら面倒くさいことになるのは必至だ。
刻一刻と時間が迫る中、うんうんと悩むが良い解決策が一向に見つからない。相変わらず他人事といった風の、大学生に擬態した太刀は自分に反応して通りすがって行く学生たちにひらひらと手を振りながら紙パックをヘコませていた。刀剣男士として活動してる時ならまだしも、そんなに目立つ容姿でもないのに先ほどからちらちらと寄せられる視線。人数も多く学生同士が学内の人間を把握しきれていないので、敷地内に突っ立っているだけで部外者だとバレることもないと思うのだが――やはり視線が気になって私の気は少し別の方向に向いてしまう。
「なあ、主さん」
「……ここではなるべく『主』って呼ばないで」
「『さん』って言いにくいんですわ。――で、さっきの二人組の女の子らが、自分指差して『かっこいいねー』って」
「…………」
「言うてましたで」
すでに背後にいる女子学生二人を振り返りながら、己を人差し指で指し示して首を傾げる国行。
「……」
正直どういう反応をしていいかも分からないし、一体私にどんな返事を求めているのかも不明だが――誰もがその美しい刀身に宿った付喪神ゆえ、私の力から人の体を得た彼らは刀から姿が変わっても人間の目を惹くような見た目をしていることは理解している。しかし、そんな刀剣たちに囲まれ日々を過ごしていくうちに見慣れたものになり、すっかり気にもとめなくなっていた。
――でも今一度言われてみれば……
――そっか、やっぱり目を奪う身形をしてるんだな
国行の均整のとれた体と端整なつくりの顔を見ながら、同時に本丸にいる刀剣男士たちのことも思い浮かべる。ああ、そういえば、短刀たちはみんな愛らしいし、ほかの刀剣たちもテレビの先にいる人たちに負けず劣らず…………
「鐘の音や」
いつの間にか本題から流れ、横道に逸れた考えを巡らせ始めた私の脳内。急いでいたこともすっかり忘れ焦燥が消えた頃、耳に聞こえたのは国行のそんな呟きと――学内に響く本鈴の音。
「――ああああ講義!」
「こうぎ?」
「も、もう一緒に来て!こっち!走って!」
「自分行ってええんですか?」
「あ、ああー……だ、大講義室だし、人数も多いし、」
国行の素性を掘り返すように探ってくる友人もこの講義には……
「いないし、大丈夫!ほら!」
「ええー……走りますのん?」
「あなた足は速いでしょ!」
幸い教授が研究室に忘れ物を取りに出て行った間で、注意を受けることもなく、ざわつく教室内にドアを開く音が強調されることもなく、無事に席につくことができた。
「すごい人ですやん」
「うん。これからね、教授の講義……話を九十分黙って聞かなきゃいけないから、そのあいだ、じっとしててね」
「九十分……?」
「ちょっと長いけど何もしなくていいから。終わるまで私の隣で座ってて」
訝しげな顔をしている国行に耳打ちでそう言うと、前の扉が開いて教授が教壇の上に立った。瞬間、だんだんとフェードアウトしていく学生たちの喋り声に、きょろきょろと周りを見回す国行に「前見てて」と再び囁き声で語りかける。
――ああ、何事もなく終わりますように
「会合みたいやな」「主さん、あのおっさん誰なん?」「これみんな主さんとおんなし学生さんちゅー人らなん?」体を傾けて耳元でこそこそと質問を投げかけてくる国行の姿勢を正させると、マイクから開始の合図である威圧感を含んだ低い声が聞こえてきた。
淡々と講義は進んでいた。開始から三十分以上が経ち、机に突っ伏して居眠りを始める受講生がそこかしこで出てきた頃。最初は配られたレジュメを眺めたり教授の話を大人しく聞いていた国行もまた、例に漏れず、机の上に倒れるようにして寝息を立てていた。完全に夢の世界へ旅立ってしまった彼の隣で、私は眠い目をこすりながら睡魔と戦う。単位なんてもらえなくても痛くも痒くもない国行と違って、今までフル単の私は期末試験にも備えてここで講義内容を聞き逃すわけにはいかない。
人の心理と精神病またその治療法など、決して緩い内容ではないそれは聞いてるだけでうとうとしてくる。私でさえ毎回こんな調子なのだから、国行にとっては欠けらも興味のない話題はそれこそ子守唄以外の何ものでもなかっただろう。
教壇から降りた教授が小難しい話を続けながら室内を周回する。寝ている学生の肩を軽く揺さぶる形で起こしてまわる手は、言わずもがな国行のもとにも起床を促しにやってきた。受講生が多いといっても、今日初めて見る顔があったらもしかすると気づかれるのでは、と少しハラハラしながら横目で一連の動作を窺っていたが、特に怪しまれることもなく通り過ぎてくれたので私は一人でほっと胸を撫で下ろす。
「ん、……」
教授が側を去ったあと、肩から伝わった小さな振動に時間差で反応してゆっくりと体を起こし、半開きの目をこすって二、三度瞬きをした国行は、欠伸混じりに私に話しかける。
「もう終わりましたん?」
「まだだよ」
「まだなん……」
「半分も過ぎてない」
「嘘やろ……」
あと一時間くらいだよ、と言うと眉間に皺を寄せて溜め息をつく。まだ完全に開ききってない瞼を見るに、これは再び睡魔に負けそうだな、と講義を聞く傍ら国行の様子を観察していたが、退屈そうに配布物に目を落としたり、ぼーと前を見たりとやる気なさげな態度が目立ったが、残りの約一時間、目を閉じることなくやり過ごした。
今日はここまで、という教授の声でがたがたと席を立ちだす学生たち。「やっとや……」と疲れを滲ませながら大きく伸びをした国行と一緒に、騒がしい集団に紛れて講義室を出る。外へ抜けるまで人の波に押されてなかなか彼の横に立つことができなかったが、背の高い太刀の青年の姿を見失うことはなく、開けた場所に着くと私はすぐにその隣に並んだ。
「どうだった?」
「……どうもこうもあらへん」
「また受けてみる?」
「遠慮さしてもらいます」
言っとることさっぱりやし、退屈やし、寝たら起こされるし、人ぎょうさんおりすぎて落ち着かへんし……と気に入らなかった部分を列挙していく国行。彼を近衛にして政府の会合に出席したことがあるが、その時以上にダルそうに肩を落としている。まあ楽しい内容ではなかったし、興味がない議題なら尚更長く感じた時間だっただろうな。講義に間に合うことしか考えず、有無もいわさず連れてきてしまったことを少し後悔する。
「ごめんね、無理やり付き合わせて」
「ん?いや、ええけど。主さんがこっちで何やっとんか気になって来たん自分ですし。それ見られたんは良かった思てますよ」
「そ、そう?」
「ええ。でも毎日あんなんやってはるんですか?」
「してるよ。今のを一日二回から五回くらい受けるかな。内容が違うものをね」
「……。……お疲れさんです」
自分が普段していることをざっくりと説明すれば、国行は目を見開いて私の顔を見たあと、溜め息を一つ吐いて労いの言葉を口にした。『ほんまに?』そんな文字が浮かんで見える表情に、私は小さな笑い声で返す。
どこにでもいる大学生みたいな身なりをした彼を見れば、以前からこうして一緒にキャンパス内を歩いていたような気がしてくるのだから、なんだか不思議だ。