この日全ての講義が終了した頃には空は橙色に染まっていた。
いつも一緒にいる友人とは時間が合わず、一人で帰路につくことが決まっていたので、講義室を出て真っ直ぐ門の方角へ向かって足を進める。廊下を抜け、施設の扉を潜り、学外へ伸びる道に出たとき――前方、丁度門がある場所にスーツを着たグループが立ち話をしている光景が視界に入る。一度チラ、と視線を寄越しただけでそれが現在就職活動中の先輩たちだということが分かった。
一見すれば、既にどこかに勤めていそうな会社員にしか見えないその姿を見て、最近よく聞くようになった同級生たちの言葉が脳裏を掠める。自分たちもそう遠くない未来、スーツを纏って街を忙しく駆け回る日々を送るんだという嘆きを耳にするたび、私は本丸という名の我が家で眠っている自分の綺麗なスーツを思い出す。入学式以降、ゼミの活動以外で引っ張り出していないそれ。和服が正装な審神者として政府に雇われている身であるので、今後も滅多に着用する機会がないことを思うととても勿体無い気がしてくる。
同級生や友人たちが就職活動を開始して講義をたびたび休むようになっても、私は今と変わらず毎日ここに通い続けるんだなと考えれば、少し寂しいような、世間から浮いてるような――想像するだけで疎外感に包まれるのは今に限った話ではない。
生活における金銭面こそ安定はしてるものの、肝心の業務の中身は今日まで見ていた顔が明日も見られるとは限らない、血の臭いが常に纏わり付いているものである。
日常は四六時中殺伐としているわけではないが、そんな危険性を孕んだ状況に身を置いてることは事実だ。今ではすっかり私にとっての″普通″になってしまってるが。
ぼんやりとそんなことを考えながら、背広を着た四人の隣を横切る。彼らの中にも先輩という存在の人物がいるのか、「現代も大変なんだね」「今が踏ん張り所だとは思うけど、体調にも気を遣ってあげるんだよ」「僕も応援してるから、頑張って」と年上らしき人から言葉をかけられているのが聞こえる。職員の人か教授かな、と特に気にもとめず素通りし大学の敷地から出ると――
「――!」
背中にかかったのは、私の名前。正体を探る前に反射条件で振り向くとそこには、
「待ってたんだよ。今終わりだよね?」
「……しょ、?」
片手を挙げてにこやかにこちらへ駆け寄ってきたのは、刀と鎧などの装飾品を取り払いシンプルなスーツのみを身に纏った、眼帯が特徴の刀剣男士――燭台切光忠。その背後には訝しげにこちらを見つめる三人の先輩たち。私を呼んだ彼の名を紡ぎ終えぬまま、両者に視線を往復させ――浮かんだ一つの推測を反芻する。
同じ服装。人生経験の違いを感じさせる声援。……もしかして、先程のそれは、
「君を待ってたらあの子たちに話しかけられて、少し話し込んでたんだ」
私が正解を導き出す前に経緯を話してくれる燭台切さん。「あ、そ、そうなんですか」とまだ驚きが消えずあたふたした返答を私が口にすると、間をあけず別の声が参加してくる。ああなんだじゃん、と軽いノリで私に近寄ってきたのは、何度か顔を合わせて話したことのある先輩だった。「あ、お疲れ様です」きっちりとしたスーツを着ている姿は初めて見るので、なんだか新鮮な気分だ。釣られてこちらにやってきた残る二方にも会釈をすると、事態がのみ込めたところで燭台切さんの方に振りかえる。
「今日はどうしたんですか」
「夕餉の準備をしようとしたら材料がちょっと足りないことに気づいてね」
「買い物、ですか?」
「ああ。君の好物を作るつもりだったから、手は抜きたくなくて」
政府の雇われ身になっても以前の生活の感覚が抜けず、できるだけ持参してと私が渡した、いつかのエコバッグを掲げて見せる燭台切さん。さらっと嬉しいことを言ってくれた彼は「それで、時間が合ったから、君と一緒に帰ろうかと思ってここに寄ったんだ」と微笑むと、私の名を呼んだ一人の先輩をじっと見つめる。
「二人は知り合いかな?」
「はい。先輩で、私が後輩。たまに話したりするんですよ」
「そっか。――と仲良くしてあげてね」
私が答えると、燭台切さんの口から出るのは小さい子供同士の関係に干渉する親のような一言。その柔らかな声をかけられた先輩は、若干面食らいながらも爽やかな笑みを返す。燭台切さんの真っ直ぐすぎる世話焼きな一面はたまにとてもくすぐったい。戦いに関しては雄々しく、格好のついた見た目に反してというのもあり、私も最初は彼の内面と外見を馴染ませることが難しかったので今先輩が考えてることは手に取るように分かる。
それからも私の大学生活についてや学生たちの就活の話題で暫しの間盛り上がり、二人で並んで家路についたのは最初に会ってから三十分が過ぎたくらいの頃だった。
「彼らも戦ってるんだねえ」
僕たちと目的や手段は違うけど。
傍から見れば就活生たちと同じステージで社会の波に立ち向かっていそうな格好をしている日本刀は、感慨深げにぽつりと呟く。
「君も僕たちの主になっていなかったら、ああやって活動する予定だったんだよね」
「そうですね」
「……どうだい、今は」
「能力を見いだされたのなら、私は使命に従事しますよ。未来からお声がかかるなんて夢にも思わなかったです……けど、審神者としてのこの力で貴方たちと共にいられる日々は好きですし、後悔なんてしてません」
「そう。……そうか。――うん。」
何かを噛み締めるように首を縦に振る燭台切さんは、はあ、と一つ息を零すと静かに私を見据えた。
「僕も、主の為にもっと頑張らないとね」
次いで向けられるのは穏やかな微笑み。思わず惹き込まれそうになるが、じっくりと眺める前に「いや、違うな」とスッと彼の顔から柔和な表情が消えた。
「頑張るよ。一刀剣としてちゃんと君を支えられるようにね」
どうしたんだろうと目線を離さずにいると、そんな台詞と共に再び笑顔が浮かぶ。細められた金色の瞳と視線が交われば、胸の底から湧き上がってくる温かい気持ちがそのまま舌に乗って声に出た。
「よろしくお願いします」
心の底に溜まっていたもやもやが少し取り除かれたような気がした。私の立ってる場所は少し……少し?――まあ大分、だとしても、周りとは違っていたりするけど、″そこ″で一人なわけじゃないなら、やっていける自信は、ある。以前から理解はしていたが、実際言ってもらえると凄く心強いもので。
軽くなった気分を携えて歩く帰り道はいつもより明るく見えて、だから、このままの調子で本丸の玄関の戸を叩くつもりだった。――鞄の中のスマホが振動するまでは。
「?」
バイブ音に反応して取り出し、ディスプレイを見ると、写っていたのは画面中央に展開された小さなウィンドウ。今や電子でやり取りをする際の主流となったアプリケーションが受信したものは、短いメッセージ。差出人は先程まで喋っていた顔馴染みの先輩。すぐに返せる内容なら返信しようといつも通り画面を見た私は――次には手に持った本体を顔に近づけ、眉間に皺を寄せていた。
「なっ……!?」
たった一文。しかしその短文は私を小さな混乱に陥れるには十分だった。
『お前、社会人の彼氏と同棲してたんだな』
「んん??」
彼氏?同棲???全く身に覚えがない二文字が並んでいることに、私は右に左に首を傾げる。どういうことだ?
今までも、そしてさっきもそういった話題は一切口にしていないし、そもそも話すネタもない。思い当たる節自体存在しない。送り先を間違えたとしか考えられないと頭を悩ませていたら、隣で歩いていた燭台切さんが「どうしたの?」と声をかけてきた。
「…………」
「何か、大事な連絡?」
心配そうにこちらの様子を窺う燭台切さん。頭上にクエスチョンマークが浮いた彼の服装を見て、私の中にピンとくるものがあった。
――社会人?
そう呼ばれる人たちの象徴であるスーツを着ている燭台切さん。何も知らない人にとっては彼は普通の社会人にしか見えない。――これは当てはまる。もしかして先輩が私の……と思い込んでるのって……。でも、同棲?仮に先輩が宛先を間違ってないとして、同棲なんてしている相手もいない私は無論のことそれを話に出すことすらできないのだが、一体どこからそんな勘違いが――――
「まだ何か予定とかあった?夕餉の準備、遅らせようか?」
……。いや、待て。あったかもしれない。
夕餉。夕飯。買い物。今日は私の好物を作るつもり。……。…………。
「えっ、大丈夫?」
片手で顔を覆う私に燭台切さんが焦って距離を縮めてくる。――ああ、そうだ。確かにあれじゃあ、誤解されても仕方ないかな……。
大丈夫ですよ何でもありません、と心配してくれている燭台切さんに早口でそう取り繕うと、高速でキーボードをタップして先輩へ返事を返す。
悪い気はしないですが、違います!