ふと時計を見やると、子四つ時を過ぎた頃だった。
我ながらよく集中していたなと眠気が入った頭で考えながら、数時間同じ体勢だった体を目一杯に伸ばす。同時に大きな欠伸がもれ、本格的に睡魔が襲ってきたことを確認すると、床に入る前に今一度書き上がった文書を見直す。出陣や演練、遠征、内番の予定を組んだ一覧には自分でも見ていて頭がくらくらしてきそうな量の情報が詰まっていた。
まず、阿津賀志山方面の最深部で存在が囁かれている刀剣男士の捜索を大太刀と槍、太刀と薙刀の部隊が続け、まだ練度の低い短刀や脇差は演練で実戦に備えた訓練をし、後方支援に優れた打刀は日がな遠征をこなす。本丸内の活動である内番も大事な役目で、六人ずつが日替わりでこなすことになっている。
人数も増え、より多くのことに打ち込めるようになった近頃。まだ此処にいない刀剣のことを考えれば、いずれは今より全体を纏めあげることに尽力しなければならない日が来ることに若干気が重くなるが、日々身を削って動いてくれている刀剣男士たちがいる限り自分も全力で与えられた役目をこなそうと心に決める。
あと四、五時間もすれば現在熟睡中の刀剣男士たちが起きてくるだろう時間帯。無論は審神者としてそれより以前には目を覚まして一日の準備に取りかかっていなければならない。朝にめっぽう弱く、この時間から布団に入っては寝坊する自信があったため、なんならこのまま起きていても、という考えが一瞬頭を過るが後々のことを思案し素直に眠ることを選んだ。
――ずいぶん遅くなっちゃったけど
――やっぱり、短くても睡眠はしっかりとらないとね
――指揮にも影響が出るし
日中はかなりバタバタしていてのんびりと腰を下ろす暇もなかったくらいだった。お陰でこのような時刻まで作業が続いてしまったわけだが――ひとまず落ち着かせられたことには安堵しながら立ち上がる。
ようやく休めるという解放感に包まれたからだろう。
すっかり気が緩んで暖かい布団に体を埋めることしか頭になくなった。痺れる足を押さえ、床に歩みより、誰に言うでもなく「おやすみー」と呟こうとした――その瞬間。
「――――!」
どこからか、キィキィと板の軋むような音が聞こえてきた。眠気でぼうとしていた頭が静寂が破られたことで僅かに覚醒するが、風で戸が揺さぶられているのだろうと発生源について深く考察せずに自己完結で答えを出す。
が。小さな"その音"はが布団に入って横たわってからも一定の間を開けて鳴り続け――一度それに意識を取られてしまったが最後、気になってなかなか寝付けないという事態に陥ってしまった。
「……はあ」
やっと寝られると思っていただけに想定外の横やりが入ったことに若干の疲れを滲ませながら、はゆっくりと倒した体を起こす。ここまでくるともう原因が風ではないことはなんとなく察していた。
――誰か起きてる?
自然現象でなければ何か。床を踏みしめる音にもとれることから最初に思い至ったのは、まだ寝付いていない刀剣男士が本丸をほっついている可能性だ。就寝時間は刀剣の種別ごとに決まっているものの、翌日出陣や遠征がない場合は夜更かししている刀剣が毎回少なからず存在する。
実際、全員が寝付く時間帯に庭園に出ている刀剣男士と鉢合わせたことがあったり、皆が寝静まる時刻を見計らっての元へやってくる者もいたので(太郎を半ば強制的に巻き込んで次郎が晩酌に誘ってきたり、構ってもらいたがりの清光がこの時とばかりに甘えにきたり、普段は人前では無口の鳴狐が短い会話をしにきたり)、夜中に出歩いてるという事実に今更驚くことはない。
けれど、それが短刀の幼い少年たちとなったら話は別だ。夜更かしをする大抵の理由が好奇心からくるものだったりするので、その場合は明日に備えて早めに寝かしつけないといけない。
本丸の風紀にも関わってくるため、"もしそうだったら"見過ごせないと、有明行灯を手に布団から抜け出して音の発生源に耳を傾ける。
現在の時間帯が時間帯なだけに相変わらずギッ……ギイ……と鳴り続けているそれは酷く不気味な音に聞こえる。
――誰だろ
――とりあえず、声かけてみようかな
何の目的があってこんな夜更けに出歩いているのか――理由は分からないが時刻もすでに丑一つ時である。刀剣男士たちの朝は早い。決して楽ではない一日の活動をきちんとこなす為にも睡眠はしっかりととって体力を温存しておくべきだ。
そうこう考えながら腰を上げ、廊下に続く障子戸に近づく。
一体誰が何をしているんだと訝しみながら戸に手をかけようとしたが、その時。
木板の軋む音がだんだんと大きくなり――それが今、自分のいる部屋へと近づいてきていることに気づき、は反射的に手を引っ込め後ろに下がる。視線は開きかけた戸に真っ直ぐと向けながら、音を鳴らさぬよう壁際までゆっくりと後ずさる。
音の正体が何物か分かっていないだけに緊張を解くことができず迂闊に外に飛び出すこともできない。
気味が悪い音は、もしかしたらそれを生み出しているのは現実のものではないのかもしれないと思わせるには十分な雰囲気を纏って、キィ……ギィ……ミシリ……と鳴きながらこちらへやってくる。
「っ……」
一度その考えに至ると恐怖に染まるのは一瞬で、の脳内に彼女が想像しうる限りの恐ろしい悪霊の姿が次々と浮かび上がる。
――、え
――どうしよう、もしかして
――人……じゃない?
――幽霊!?
壁に背中をつけたまま、へたりと座り込んで障子戸の先にいる者の正体を必死で探るは、恐怖に駆られていながらも、故に"そこ"から視線を外すことができない。下手に動いてはいけないと本能が告げる中、身動き一つ取らずにいると、ふと、絶え間なく聞こえていた音が止んだ。
――……?
が疑問を抱くと同時に、戸と戸の僅かな隙間から覗いたのは――――白い布。
――!!
――!!!??
「ひっ……!」
咄嗟に身を縮め、悲鳴が出そうになった口を手で押さえ込み、目を瞑る。
障子戸が横に擦られる音を聞き――立てた膝を片腕で抱え、頭を項垂れて完全防御の体勢に入る。
――こないで
――こないでこないで……
「――怯えさせるつもりじゃなかったんだけどなあ」
為す術なく、脅威よ早急に去ってくれと言わんばかりに心中で早口のお経を唱え出したの頭上から降ってきたのは――声。
「…………?」
それも聞き覚えがあるものだ。
恐怖を誘う囁くような声でも、物騒なことを呟く怨念の声でもなければ、の脳内に浮かんでいた白装束を纏う女性の声ともかけ離れている。紛れもなく、男性のものだ。
「怖がらせてしまったみたいだ。すまん」
「…………鶴丸?」
まだ警戒心を残しつつ恐る恐る顔を上げると、目の前にいたのは、白は白でも思い浮かべていたものとは違う白。心配そうに様子を窺う白もとい鶴丸国永は、膝を折っての前に屈んだ。
「……寝付けなくてな。暇潰しに散策をしていたら、君の部屋から灯火が見えて来てみたんだが……驚かせてすまない」
「……。う、ううん!だ、大丈夫!!」
いつもの覇気はどこへやら。神妙な面持ちで謝罪をする鶴丸の普段は見ない姿を前に、の恐怖心が僅かに和らぐ。それを皮切りに、謎の音の正体が幽霊ではなかったという事実に安堵が湧いてき、強張っていた体の緊張が解け、心臓が元のスピードを取り戻し始める。久方ぶりに"そういうもの"に対し怯えたのでまだ本調子とはいかないが、快活な鶴丸が酷く沈んだ様子なのがとにかく気にかかり、何か口にしないと、と慌てて脳を回転させる。
「……もう、もう、大丈夫だから。ちょっとびっくりしただけ。もう安心!平気!」
「君が、ここまで怯えたのを見るのは初めてだ」
「そ……うかな?私結構怖がりだけど、あ、でも、もうほんと大丈夫!」
いつもより声を張り上げて何度も同じアピールをする様は傍から見れば白々しく映ったことだろう。実際、空元気に近いので半分演技なことに変わりはないのだが、 珍しく気分が落ちている目の前の鶴丸を安心させることだけを考え、同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫。正体も幽霊じゃなかったんだし……」
「目」
「、ん?」
の言葉がちゃんと届いているのかいないのか。返答を返さない鶴丸は一方的に短い一言を吐くと、まだ曇りがかかった表情で、そっと右手をの顔に伸ばした。前触れのない行動に咄嗟に反応できなかったは、じっと眼前の鶴丸を見つめる。
「……?」
「涙」
そう言っていつもの手袋がはめられてない指での目尻に浮かぶ涙を拭った鶴丸は、光が隠れたままの瞳で――数拍を置いた後にまた口を開く。
「悪かったな」
「……え、いや」
「もう夜も更けだ。――朝からの活動のためにもゆっくり休むんだぜ」
ぽんぽんと。優しい手つきでの頭を撫でた鶴丸は、最後に一つ微笑みを浮かべると「よっ」と言いながら腰を上げて立ち上がる。ぽかん、とその一連の動作を眺めているだけだったは、鶴丸が背を向けて障子戸に向かう途中で気を取り直し、その足を止める声をかける。――次に発する台詞も用意していないまま。
「つ、鶴丸」
「ん?」
――なにか
――何かおかしいというか……いつも通りじゃないというか……
鶴丸の言動に言い知れぬ違和感を抱いたは、胸の底から湧いてくる正体不明の感情にのせられて、言葉にならない言葉を喉の奥から拙く零し始める。
「えっと、」
再びこちらを向いた金色の両目に見下げられていることになんとなく緊張を感じて、その場を立つ。
「えっと、鶴丸……?」
「なんだい」
「……」
「……」
「……お、驚いたよ。なんというか、貴方が……すごく、大人しいっていうか……」
――ああ、なんて言えばいいんだろう
心中に浮かぶ感情を上手く日本語として組み立てられないもどかしさに思わず首を捻る。――悩んで、考えて、それでもまだぐずぐずしていると、不意に鶴丸が「ははっ」と小さく笑い声を漏らした。
「物静かな俺はそんなに滑稽だったか?」
「滑稽ってわけでは……」
「いやいや、安心させるつもりが、そのせいで逆にこっちが心配されるとはな。驚いた驚いた……」
「日頃の行いのせいか?」今まで寡黙だったのが嘘のようにいつもの朗らかさを取り戻した鶴丸は、カラカラと笑ったあと、少し意地の悪い薄い笑みを浮かべてを見つめる。
「今から一人で眠れるか?」
その表情から放たれたのは、まるで子供をからかうみたいな、冷やかし混じりの気遣い。真剣な雰囲気はすっかりと鳴りを潜め、見慣れた軽いノリの鶴丸が戻ってくる。それはを安堵させ、彼女の憂心をどこかに吹き飛ばすには十分だった。
――な、
――なんだ……
――鶴丸なりに私を励まそうとしてくれてたのか……
――気づかないうちに泣いちゃってたみたいだし、こっちも心配かけたな
が、しかし――同時に。
――私ももう子供とは言えない年齢なんだけど……!
幼子のように扱われて反抗心が芽生えないわけがなく。ニタニタと笑っている鶴丸に対し少し声を張って答える。
「ね・む・れ・ま・す!」
「ははは!どうだか」
「な、」
「なんなら、俺が一緒に寝てやってもいいぜ?」
の負けん気を軽く受け流し、口角を更に吊り上げて敷かれた布団を指差す鶴丸。それを聞き「えっ」「な、何言ってるの」と慌てふためくの顔をみて、これまた面白いものを拝見したと言わんばかりに一笑すると、「冗談だ」と穏やかな低い声を響かせて、今度こそ障子戸に手をかける。
「遅くまでご苦労さん。ゆっくり休んでくれ。――おやすみ」
開かれた戸の先――真っ暗な闇の中に足を踏み入れる鶴丸に「ああ……うん。おやすみ」と返すは、灯火がなくとも目立つ白が静かに戸を閉めるまでを見守り、それが完全に閉ざされると、小さな溜め息を吐いて床に戻る。
幽霊が出たかもしれないとハラハラしたり、滅多に見ない大人しい鶴丸が見られたり、最後はいつもの調子でからかわれて無駄な体力を使ったりと、就寝前の僅かな間に濃い体験をしたことで、どっと疲れが襲ってきた。一度覚めた目が時刻には逆らえないとばかりに眠気を帯びていく。
――朝寝坊しちゃうかもなあ
布団の中に体を入れると、案の定睡魔がやってきた。今の今まで気張っていた分安息を取り戻すと、睡眠欲というものは一気に思考を侵食していく。もう怖がるものも気にかけるものも何もない。枕元に置いた行灯の灯りを消し、肩まで埋まると、意識を夢に預け出す――――。
「刀は、人を斬ってなんぼのものでな」
うつらうつらと現実を離れだした脳が、静寂が帰ってきた空間に響く声を微かに捉える。
「その刀身が鞘から抜かれる時、人々が畏怖の目を向けるのは当然のことで、」
――しかし、半分夢の世界に旅立ち始めた思考がそれを鮮明に聞き取ることは敵わず――静粛とした声は子守唄となっての意識を現実から切り離していく。
誰かに話しかけているとも独り言とも受け取れる口調は、虫の鳴き声さえもしない沈黙の夜の中で、静かに、ただただ、淡々と、語りを続ける。
「故に、俺も長らくそんな人間達を前にしてきたわけだが」
「人の器を手に入れてからは"俺"を一目見るや息を呑む人間はいなかったからなあ」
「久方ぶりに、あまり好きではない顔を見てしまっただけさ」
月明かりだけがその身を照らす。