鼓膜を擽る鳥の囀りで目が覚めた。太陽の光を直接通さない障子越しに浴びる朝日は心地良く、このまま布団に入って横になっていれば再び眠りにおちることなど容易に想像できた。
まだほとんどの刀剣男士が眠りについている時間帯。冬の間はまだ太陽がその身を昇らせていない時刻だが、桜の蕾が芽吹き始めた今日この頃――季節が本格的に春へ移り変わろうとしている近頃は、この時間でも大分外が明るくなっていた。


「が、流石にまだ寒さは残ってるな」


身を起こし、自身の熱が伝わっている布団が半身から重力に従って離れると、まだ僅かに残る冬の冷気に素肌が撫でられるのを感じた。大体の場合、ここで再度体を布団に埋める奴が多いのだろうが、俺は名残惜しさを感じさせない動作で床から出ると、時計を一瞥してから障子戸へ歩み寄り、そっと手をかけて開いた。


光を放つ朝日が寒さを和らげる中、人工的な音が一切聞こえてこない静かな本丸は、本来の詫び錆を十二分に発揮して、あるべき風景を俺の両眼に映し出す。多くの刀剣男士が生活する此処では一日のほとんどが喧騒に包まれているのでこういう景色を拝めるのはごく限られた時刻のみである。
今の時間は短刀のチビたちは勿論、起きている刀剣自体少ないので、日中は見られないものが目にできる貴重な一時だった。代わり映えのしない日々の日常で自分から新しい物事の発見をするのは、どんな些細なことであろうと渇きを癒してくれる。
故に早朝に本丸内を散策するのは今や俺の日常となっていた。


「さて、今日はどんな……」


驚きが待っているかな?
言い慣れた台詞を発しながら今日も小さな非日常を探そうと草履を履いて辺りを見回した矢先。


「……ん?」



いつもは見ない人影が視界に入り、僅かに目を細める。その人影は「人は年をとると朝早くに目が覚めると聞いたが俺も例外ではなかったか」と呑気に微笑みを浮かべて稀にこの時間に遭遇する三日月宗近ではなく――まったく見慣れない姿形をした者だった。


「…………主?」


ちらほらと花を咲かせた桜の木々の下。注視しながら一直線に人影のもとへ歩み寄り、一つの疑念を口にすると――この日この刻初めて目にする"その人物"は花から視線を外し体ごと俺に向き直った。


「鶴丸」
「……驚いた。まさか、本当に君だとは」


俺の名前を呼んだ"彼女"は、俺が思った通りの人物だった。
。俺たち刀剣男士を束ねる審神者なる存在であり、此処、本丸のある城の主であった。


「朝の散歩か?」
「……。はい、そういったところですね。貴方は」
「毎朝この時間に本丸を散策するのが日課でな」
「みたいですね。三日月から聞きました」


俺が質問をすると、主は些か返答に間を要した。この時間この場所で姿を見るのが初めてなのもあり、何か彼女の心境に変化があったのかと勘ぐらざるを得ないが、あえて突っ込まずに、名前が出た彼女の近侍についての話題を振る。


「俺は好きで起きてるからいいが……三日月の奴が早朝徘徊してることは知っているか?ありゃあ十中八九高血圧だぞ」
「ええ、本人もそんなことを言ってました。献立を考慮し直すべきでしょうか」
「早いうちに手は打ってた方がいいぜ」
「――彼と生まれた年代があまり違わないはずですが、貴方は大丈夫なのですか」
「常に俺を動かしてる原動力は?」
「……好奇心」
「それだ」


人差し指を向けてニッと口角を吊り上げれば、主は数秒呆けた顔をしたあと小さく笑いを零して「若いですね」と俺を見て微笑んだ。俺より幾百も年下な彼女の台詞としては不似合いだったが、一緒に秤にかけられてるのが三日月だと考えれば、今のそれは尤もな発言になる。何故なら、


「心の持ちようで体の老若は変わるのさ」
「年相応という言葉をご存知ですか」
「無論。だが、俺の担う役目ではないな」


自分でも、俺自身が日中縁側に腰かけて茶を啜ってる光景は想像できない。"そういうもの"が似合わないのは知っているし、する理由もなければ他に適役がいるので必要性がない。――せっかく自由に動かすことができる人の体を手に入れたんだ。自身の意思で行動なんて天地がひっくり返ってもできなかったことが今はできる――戦場を駆ける身として、いつこの世を去ってもおかしくないことも踏まえれば、胸の奥から湧く好奇心を抑えなければいけない理由などない。


「俺はいつだって、新しいものを見ていたい。凹凸のない日々はごめんだな」
「相変わらずですね」


出会った頃の主は、今のような俺の思想を聞く度に眉を寄せて肩を竦めていただけだったが、最近は吐く溜め息の中に呆れや諦めと一緒に安堵感もあるように感じられる。――ただの俺の憶測だが。


「今日はなにか見つけましたか?」
「いいや。今起きたばかりなんだ」
「そうでしたか」
「君はどれくらいのあいだ、此処にいたんだ?」
「言うほど経っていませんよ。桜の開花具合を見ていただけですので」
「そういえば、もうすぐ――早けりゃ来週中にも咲く予定なんだってな」
「それはそれは……」


楽しみですね。
俺が歌仙から得た情報を話せば、主は頬を緩ませて微笑を浮かべ、桜へと穏やかな瞳を向けながら開きかけの蕾にそっと手を伸ばした。
普段から物静かな性格なので既に見慣れた仕草だったが――静寂に包まれた空間なのと、その横顔があまりに愛おしげに桜を見つめるので、不覚にも――不覚にも自身の心の臓が大きく脈を打った。


「今年の桜の開花は、貴方たちと、この場所で迎えたいと思っていました」
「ん?」


今にも枝に届きそうだった主の手が、そんな言葉と共に力なく下へ垂れ下がっていく――。何かが引っかかる発言を聞き返す前に次に俺が見たのは、もの悲しげな、しかし、瞳に強い光を宿した彼女の顔。



「私、は――此度、駿河国の殿方と祝言を挙げる運びと相成りました」



思考が止まる。
いくつもの感情を押し込めたかのような主の表情を前に、告白を前に、呼吸をすることさえ一瞬忘れ去り、静寂が横たわる空間で、ただ、ただ、彼女を見つめ続けた。


「…………主。いや、
「はい」
「そんな話は、初めて耳にするが」
「今初めて言いましたから」


クスリと微笑まれる。


「桜を、一緒に見ることができないって?」
「はい」
「いつ行く……いや、ちょっと待て。。審神者。君は、その立場を捨ててただの民衆のようにどこかの男の細君になるっていうのか」
「駿河国のかたです」
「聞きたいのはそれじゃない」


落ち着いた声色で放たれた事実を瞬時に飲み込めず、至っていつも通りな態度の彼女とは裏腹に俺は焦燥を滲ませる。
脳裏に浮かぶのは、と祝言を挙げるという顔も名も知らない男と、彼女が率いる俺含む刀剣男士たちのこと、未だに跳梁跋扈し続ける歴史修正主義者との戦いのこと――。が審神者となってまだ日は浅く、近頃になってやっと刀剣男士たちの手綱を握って指揮を執れるようになったところだった。ここから力を入れていくべき時に人生の大きな分岐点に立つとは、それも当の日が間も無くとなった頃に初めて告げるなど、想定外すぎて、驚きすぎて、軽口を叩く言葉も出ない。――彼女の意図が掴めない。
祝言を挙げるということは後に嫁ぎ先へ本拠地を移動するか、この機会に審神者という役職自体を辞めてしまうかで――残る可能性としては、


「此処に残るのか?」
「……」
「その男と祝言を挙げたあと、君はどうするんだ?まさか、政府から見込まれて審神者となった力を蔑ろにするつもりじゃあるまいな」
「……」
「……。このような時の無言は肯定と取るのが相場と聞くが、俺は君の言葉が聴きたい」


目線を俺から逸らして口を固く噤むは、俺の問いかけに対して暫く沈黙を貫いていたが――小さく息を吐いて視線を俺に据えると、こちらとの間合いを詰め、やっと唇を開いた。


「鶴丸」


間隔にして数センチ。俺より身長の低いが上目遣いで俺を見やる。互いの顔の距離が近くなっても表情一つ変えずに、彼女は続く言葉を吐き出した。


「私は、駿河の殿方のもとへ嫁ぎます」
、君は」
「――――というのは、実のところ嘘だったりします」



…………………………………………。………………?………………ん?


「は?」
「ですから、嘘です。」
「なに?」
「私に殿方と祝言を挙げる予定はございません」


付け足せば駿河に男性の知り合い自体おりません。
グッと顔を近づけて悪戯好きな童のように口端を吊り上げたは、先刻までの物静かな雰囲気をどこかへ吹き飛ばし、唖然としている俺を色々な角度から覗き込む。


「鶴丸?」
「……」
「国永?」
「……」
「鶴丸ー?」
「…………」
「鶴丸……?」
「………………」
「えっと、」


頭の整理がつかず、何も発することができない棒立ち状態の俺の周りでちょろちょろしている。俺が一切反応を返さない(返せない)せいか、その声に陰りが差し始める。いつもの俺なら、彼女の気を変える一言なんざ吐く息と共にでてくるものだが、今は生憎そんな余裕がない。

――嘘。
嘘だと言った。はっきりと、きっぱりと本人の口からそう告げられた。男と祝言を挙げる、というのは嘘だと。虚言だと。


――嘘?


すっかり緊張を解いたらしいとは反対に余計に頭がこんがらかる俺は、一つ一つ絡んだ糸をほどいていく。


――日もない祝言の話をされた
――それも、打ち明けるのは俺が初めてときた
――途中から自分でも珍しく熱くなってた気がするが……
――様々なことを考えて、でも、嘘だった。
――が男と祝言を挙げる予定は、ない
――ない。
――……だったら、は何の意図があってこんな話を俺にした?
――それ以前に、何故、此処にいた?
――いつもはいない場所に、いつもはいない時間に何故いた?


「……」


経緯を辿っていくと、彼女を見つけた瞬間から疑問を抱いていたことを思い出した。――そしてこれに気づくと同時に一つの予測が浮上した。
仕込み。これはが俺を驚かせるために仕掛けたものなのではないだろうか。
会話の流れで偶然思い付いたことを発言してみた、というよりはその方がしっくりくる。

"最初からいつもと違っていた"。そう。いつもと一緒だったのは、朝起きて外に出て彼女を見つけるまでのあいだ。つまり、俺が主を視界に捉えたその瞬間から、俺は彼女の策略にハマっていたということだ。俺が毎朝この時間に出歩いてるという情報も持っていた。これはもう確信してもいいのでは?
――俺が日頃、主や他の刀剣を驚かせるために入念な準備を行うせいかこんな予測を立ててしまったが、あながち間違っていないのでは、という自信がある。


「つ、鶴丸……?ごめんなさい、驚かせてしまって」


そんなこんなと俺が一人で物思いに耽り一人で納得していると、活気を失った声で主が話しかけてきた。……そういえば彼女をずっと無視しっぱなしだった。


「あ……いや、悪い」
「朝からごめんなさい」
「いやいや、普段は俺が驚かせる立場だからな。すごく驚いたが、何、謝る必要はない」


確かに人形を得てから最高といっていいほどに驚いたが、危惧していたことも全て無かったことになるのと、常日頃からの己の行動を顧みれば可愛いものだと片付けられた。


「……ありがとう。でも、エイプリルフールだからと調子に乗りました。改めて、ごめんなさい」
「えい……ぷ?」


丁寧に頭を下げる主。やっと事が収まったと思ったら、しかし、主の口から出た聞いたことのない単語にまたもや俺の中で謎が生まれる。耳慣れない言葉ゆえにオウム返しをすることすらできずにいると、主がそんな俺を見て「エイプリルフールというのはですね」と切り出した。


「西洋の行事で、一年のうち四月一日だけ、嘘をついてもいいということになってるんですよ」
「嘘をついてもいい日?」
「はい。ついてもいい、というよりは、つく日でしょうか。貴方からみて未来の日本でも誰もがこの日のために嘘の仕込みを練るのですよ」
「……嘘をつく。西洋の行事」
「はい」
「そうか、今日は卯月朔日か」
「はい。なので、貴方相手に一芝居打ったということです」


「私の演技、どうでした?」


にっこりと。
勝ち誇ったような笑みを俺に向けた主は、心なしか楽しそうで、思わず俺も釣られて笑いを零す。


「参った」


――予想通り、仕込みだった。しかしその出来は予想外だった。真面目で遊びがない主だと思っていたが、今回新しい一面を見ることができ、日課の散策を忘れるほどには満たされるものがあった。今日はこのまま部屋に戻って朝支度をするのもいいかもしれない。



「迫真の演技だったなあ。今度一緒に他の刀剣へ悪戯を仕掛けてみないか?」
「それはお断りします」
「つれないねえ」
「貴方は今後とも控え目に。特に大倶利伽羅をあまりからかうのは関心しません。この前怒られていたでしょう」
「あれは俺と共に燭台切も参戦してたから呆れてただけだぜ」
「……。周りを巻き込むのもほどほどに」
「あいつから話にのってきたんだ」
「……そうなんですか?ああ、あと、粟田口の子たちにも余計なことを吹聴しないよう。一期の心労を増やすものではありませんよ」
「あいつは真面目だからな。君と一緒で」


どちらかが促すでもなく自然と歩を進めながら何気ない会話を交わしていると、主が男のもとへ嫁ぐという話が嘘で何よりだったと改めて思う。

主にも俺たち刀剣にも果たさねばならない使命がある。歴史を守るために今はまだ駆け出したばかりで――主にはこれからより一層審神者としての職分に励んでもらわなければならない。
主が一人の人間として、女性としてありふれた幸せを手にすることは否定しないが、今はまだその時ではないと――彼女自身解っているはずだ。

だから、きっと、


「しかし、えいぷりるふうるか。良いことを聞いた」
「嘘をつくなら程々にしてくださいね」



安堵に満ちる俺の心の中に、彼女の嘘で創られた実在もしない男に対して悋気の情があることも、一時的な錯覚に過ぎないはずだ。