白い着物を染めた鮮血が、ぽたりぽたりと滴り落ちる。
床に赤い染みを作りながら、仲間に肩を貸されて覚束ない足取りで歩を進めるのは、只今出陣先から帰還した鶴丸国永。
切り裂かれた布から覗く無数の切り傷は戦場で苦戦を強いられたことを強く主張しており、まだ鮮やかな血液が染みでているそこからは絶えず痛みが走っているのだろう――端整な顔は悲痛に歪められていた。

部隊を迎えに出たこの日の近侍である秋田藤四郎は、そんな鶴丸の姿を見るや目を丸く見開き、次には瞳を潤ませながら背中を向けてドタバタと来た廊下を駆けていった。手入れ部屋を空けてください、と必死な幼い声を聞き付けて、本丸で各々の作業をしていた男士たちが事態を把握する。
手入れ部屋の準備を整えに入る者、鶴丸の介抱に向かう者で、それまで穏やかだった本丸内に様々な音と会話が入り乱れる。

意識が朦朧とする中――自分の元へやってくる男士たちを見た鶴丸は、残った最後の理性で血に濡れた右手を挙げると、ひらひらと振ってみせた。
鶴丸としては、少しでも気丈に振る舞おうと思っての動作だったのが――無論、力は込められずに弱々しく、いつも通りの『帰ったぜ』という意気揚々とした声は共になく、普段活動的であるギャップも手伝って、今のそれは皆の不安を煽る動きでしかなかった。

無理に動くな、と心配が滲んだ叱咤を飛ばす男士、傷だらけの体を支えようと冷静に手を伸ばす男士、赤く染まった鶴丸の刀を回収する男士、近寄ってくる短刀たちに向こうへ行っておけと静かな声で語りかける男士。――気付けば玄関は報を耳にした刀剣男士たちで溢れていた。
騒がしさが増した中心にいる鶴丸は、男たちに紛れて一際華奢な体格をした人物が群衆を割ってやってくる姿を、霞む視界の中で認識すると、薄く微笑むと同時に全身から力を抜いてずるりと体を滑らせ――


そのまま意識を失った。







「…………」


――目に写る全ての線がぼんやりと浮かび上がる。目の前に広がるのは木製の天井の一色のみ。瞬きを繰り返してもまだ覚醒しきらない脳は、自我を置いてけぼりにする形で何かを確かめるように首を動かす。その、ほんの僅かに体勢を変えた一瞬が鋭い痛みとなって肉体を刺激し、そこで初めて浮遊していた正気が地についた。


「っ……」


声にならない小さな悲鳴は吐息となって口から漏れ出す。悶えようにも、頭も、腕も、腹も、脚も、肢体が余すことなく損傷を受けていたせいで、どんな姿勢をとっても激痛が体を走り抜ける。
ここまできても咄嗟の叫び声があがらないのは、奥底にある理性が働いているからなのか。少しでも楽になれる体勢を無意識的に求める鶴丸は、歯を食いしばって模索を続ける途中、あることに気がついて動きをとめた。



「……」


視線の先に捉えたのは、包帯が巻かれた己の右手を優しく握る女の姿。柔い肌と温かな体温に触られているそこは、他の部位と違わず傷を負っているはずなのだが、不思議と痛みを感じることはない。それどころか、安らぎさえ覚える名前の知らない感覚が伝わってくるのが分かり、気は痛みから逸れる。

じっと正座をしている、顔を俯けたままのその女が自分の主であるだと気づいたのはすぐで、「きみ、」と掠れた声で呼び掛けると、垂れ下がっていた髪がゆっくりと持ち上げられた。


「……ん、……ああ、目が覚めた?よかった……」


寝起きと思しき様子で、下を向いていた両目が鶴丸を見据える。手入れ部屋に運ばれてから恐らくずっと傍らに居てくれたのだろう。静か、というよりは声量を失った声を聞き、鶴丸が彼女の顔を見ながら尋ねる。ぽつり、と零すように。


「きみ、泣いてたのか」


赤く腫れた目。濡れた跡が残っている目尻。黒い線が伝う頬。朝見たときは整えられていた化粧はぐちゃぐちゃに乱れ、着物は所々水分を吸って色を変えている。
今の彼女の双眸に涙はないが、多分、きっと、


「……。すまん」
「謝らない、でよ」
「いや、戦場で隙をつくったのは、事実だ。一瞬でも気を抜いた結果がこれだ。きみにも、あやつらにも、心配をかけてしまって、すまない」


じっとを見つめ、真剣な声色で言う。
それを正面から受けた彼女は、首を横に振り、眉を下げて、溢れそうになった涙をぐっと抑え込み、心からの一言を絞り出した。


「……帰ってきてくれてありがとう」
「俺はきみのものだからな、当たり前だ」


低く穏やかな鶴丸の声が涙腺を揺すり、太股に乗せた左手が着物を掌に収めて皺を生み出す。ぽたりと落ちそうになった雫を袖で拭い、押し出されそうな感情が飛び出す前に口を固く噤む。しかし、鶴丸と繋いでいる右手が慰めてくるように握り返され、どうしようもなく瞳の奥から熱いものがこみ上がってくる。
それでも、重傷状態の鶴丸が弱音を吐いていないということを自分に言い聞かせ、必死の我慢で口角を上げた。

誰がどう見ても無理をしていると分かる彼女の表情を前にした鶴丸は、苦笑を浮かべると、痛む体を無理やり起き上がらせて布団から身を出した。
ぎょっとしたが涙を引っ込めて慌てて制止するが、「大丈夫だ」とさらりと嘘を吐き、あわあわとし出す彼女の正面に片膝をつく。
容赦なく駆け抜ける激痛を感情の外側に追いやり、と視線を絡めてから自分より細い指先を手にとると、頭を垂れて、空いている方の己の手を胸に添えた。


「鶴丸国永。平安より授かったこの身、此度はきみに捧げよう」
「――!」


白銀の頭が紡ぎだしたその台詞に、がピクリと反応する。
触れあっている指が小さく反応したことで、彼女の言わんとしていることを察した鶴丸だが、あえてそれには触れず、続きの言葉を口にする。


「今生は何時如何なる瞬間も君と共にある。――故、俺はこれからも必ずきみの下へ帰ってくることを」


垂らした頭が上を向く。行灯の明かりに照らされる髪は、包帯で巻かれているため、あの時のように靡くことはなかった。――が。


「ここに誓わせてもらう」



射抜くように真っ直ぐな金色の目は、変わらず愛しい存在を見つめていた。


「だから、どうか安心してくれ」
「……っ、」


一滴の濁りもない黄金に微笑まれ、の両の目から押し込んでいた思いが止めどなく流れ出す。何度も何度も頷きながら、鼻をすすってごしごしと目元を擦る。
そして息を一つ吐き出すと、感慨深げに呟いた。


「……。あの頃と、少し違う」
「……確かに、常に見据えるものは変わったな」


″あの頃″と聞いて思い浮かぶのは、互いが初めて出会った日のことだ。あの瞬間も今のように、鶴丸が恭しい態度で畏まった台詞を彼女に捧げたのだ。その時に目の先にあったものは現在とは少々異なって――。


「貴方、立派になったのね」
「人の体を手に入れたばかりの頃はな、それこそ好奇心が疼いてばかりだったが……今はきみが平穏であれるように、と、……っ!」
「ゆ、ゆっくり喋って!」


すらすらと舌を動かしていた鶴丸が耐えきれず息を詰まらせると、は背中をさすって布団に戻るように促す。咳一つで身体中に痛みが走る状態で無理をされてはこちらもハラハラするとばかりに安静を要求すると、鶴丸は素直に横になった。


――もう夜も深い時刻だ。朝までに完治する程度の怪我ではないので明日は一日寝てもらうつもりだが、夜も休んでいたほうが良いに越したことはない。夜更かしはここまで、と就寝の挨拶をかけようとしたに、鶴丸が話しかけた。


「君」
「ん?」
「また、明日だ」
「はい。また明日」
「変わらない言葉を交わそう、ずっとこの先も」
「……はい。おやすみなさい」
「おやすみ」