There is more pleasure in loving than in being beloved.

「あら、今日はあの子は?」
「なんだか体調が優れないみたいでね。寝てる。朝食は全部食べたんだけど」
「貴方が夜に無理させてるからじゃないの?」
「昨日はなにもしてないよ」
「じゃあ日々のストレスが原因ってことかしら」


嫌味をかましたつもりが、男は依然として機嫌をたもったまま、目の前の作業を進めている。


時は過ぎて午前10時。
波江が職場である臨也のマンションに出勤してき、いつものように仕事に取り掛かりながら、雇い主に例の少女の話題を振っていた。波江としてはさほど気にかけてる事柄でもなかったのだが―――もしもの事態を予測して念のため訊いておいたのだ。


「どっちにしろ、殺したっていう答えが返ってこなくて安心したわ」
「えらく物騒なことを言ってくれるな」
「私も死体と一つ屋根の下で過ごすっていうのは嫌だから」
「ここはマンションだけどね」
「ああ、でもよくよく考えてみたら自分の手は汚さない主義の貴方が人を手にかけるなんてことは滅多にしないんだったわね」
「滅多にって……一度も人を殺した経験はないよ」
「それとも愛しい彼女に対してなら寧ろ躊躇いなく力をくわえることができるのかしら」
「……」


噛み合ってない、というか波江が合わそうとせず、一方的に喋ってるせいでもはや会話とは言い難い言葉の返し合いになってしまった。元々臨也と波江のやり取りはどこか冷めていて素っ気無い感じだったが、臨也がを手に入れてからは更に温度が下がったのが事実だ。理由は単純明快。「私は誠二と中々接触する機会すらないのに、アイツは欲しいものを手にできて……」オマケに自慢の日々。という、波江の私情を含んだ妬みだ。
怜悧・冷徹・冷静の3クールを所持している彼女は、露骨に臨也を敬遠したりする一方で、決して感情を乱したりはしない。プライドがあるのは当然の如く、矢霧波江のスタンスを崩すような下手な真似をするのはもってのほか。そう自分に言い聞かせて、臨也の惚気話はほとんど華麗に流して無視を貫く。



「…………」
「…………」
「……波江さん最近怖いよ?主に言動が」
「そう。よかったわね」
「……あんまり冷たいと、給料下げちゃいますよー」
「勝手になさい。その代わり貴方のその口も減らしてくれたら助かるわ」
「……チッ」


これでも一応、上司と部下である。
いつにも増して重たい空気に包まれた仕事場で、お互い淡々と業務をこなす。臨也の舌打ちを最後に、作業指示以外の声が響くことはなかった。それこそ波江が夕食をつくって帰るまでの間中、ずっと。


―――ここのところ殺気立ってるな……。
―――やれやれ、嫉妬っていうのは醜いねえ。個人の事情はビジネスに持ち込まないでほしいな


―――ああ、うざい。とてつもなくうざい。
―――他に行き先があったならこんな所さっさと去ってやるわよ



両者とも変な意地を張って子供のように背中を向け、心の中で悪態をつく。居心地が悪い場所にいつまでもいたくなかったのか、波江は今日は早めに切り上げて帰宅した。まあ、当たり前といえば当たり前だろう。臨也も臨也で、久方ぶりの開放感を味わいながら、ようやく一人になれた際には大きな伸びをして、疲れの色の混じった溜息を吐いた。

そしてすぐに立ち上がると、の居る部屋へ足を伸ばす。




「……波江さん、帰ったんですか」
「ああ。夕飯つくっておいてくれてるから、今夜は一緒に食べない?」
「え?」
「この頃暑いでしょ。体調が崩れたのはその所為もあるかもしれない。むしむしした部屋より広くて涼しい場所で食べたほうが、きっとおいしいよ」





♂♀







「……」


ぺたり、と新宿の町を見下ろせる窓に張り付いて、綺麗にライトアップされた建物たちを視界に映す。外の景色を真面目にみるのは、かれこれ確か一週間ぶりくらいか。目前に広がる世界を眺めているの瞳は憂いを帯びており、もの哀しそうな小さな顔が微かに泣きそうになっているのを、臨也は見逃さなかった。



「外の世界が恋しいかい?」
「……」
「外の空気を吸いたいかい?」
「……」
「また、太陽の下に立ってみたいかい?」
「……私、は、」
「うん」
「臨也さんの傍にいたいです」
「……いい子だね」


の頭を優しく撫でて、頭上にキスを落とす。
暫し二人で夜景の前に立っていたが、臨也が思い出したように「そうだ」と切り出し、


「今夜の夕飯、シチューなんだよね」


どこか呆れた物言いでキッチンに視線をやった。


「……夏なのに、ですか?」
「ああ」


季節と一致しないメニューの選択は、波江の意図によるささやかな嫌がらせだろう。昼間にあったちょっとした喧嘩のことを根にもってる証拠だ。


「……ま、いいや。席についてて。持っていくから」
「はい」


つくってもらってる側として文句はつけないべきか。臨也の脳内を一瞬そんな思案が巡った。苦情をつけたら、「ならインスタント食品でも食べてればいいじゃない」と今後料理をしてくれなくなる可能性が高い。しかし黙認していてもこちらが口をはさまないのをいいことに、近頃の気温に反する献立を連日組み立ててきそうで―――それも困る。初夏のこの時期、ゆくゆくは真夏日を迎えて猛烈に暑くなるであろうと予想される中、シチューやらおでんやらを毎回食卓に並べられたら体内が沸騰してしまう。

できれば両方とも回避してなんとか丸く収まるルートを進みたいところだが、生憎今は良い考えが思い浮かばない。


「量、これくらいでよかった?」
「はい、丁度いいです」
「それじゃあ」
「いただきます」
「いただきます」


手を合わせ、食前のマナーである感謝の一言を忘れず呟く。向かい合う姿勢で口と皿にスプーンを行き来させると臨也のあいだには静寂だけが居座っている。お互い話を持ち出そうともしないで、ただただ無言で食事を進行させる。時たま臨也が手をとめてをいとおしげに見つめていたが―――はその眼差しには気づかなかった。


朝起きて最初の挨拶を交わしてから、夕食に至る今まで。
臨也がに対して「異常」とみられる行動を一度でもとっただろうか。
とっていない。
―――常人の皮を被った悪魔は、夜になるとその仮面を剥ぐ。気さくな青年が一変して本性を現すまでのカウントダウンは、すでに始まっていた。

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