石鹸の香りが漂う浴室。ちなみにはいつも臨也のあとである。
シャワーを全身に浴びてシャンプーを洗い流して蛇口を締める。傷口がしみるのを我慢して湯船に浸かると、入った瞬間こそ痛みが走るものの次第にそれは薄れていく。
「…………」
シチューで温まった体がさらに温かくなるのを感じ、息を吐いてそっと目を閉じる。これからやってくる現実から目を背けるかのように。なんでもいい。一時的にでも忘却の彼方へと飛ばしてしまいたかった。その一心で過去の―――自由な身体を持っていた頃の記憶を引っ張り出す。仲の良い友達と一緒に遊んだ日のこと。普通に学校に通って同級生たちと笑って過ごした日のこと。しんどい時もあったけど、振り返ってみれば笑顔に満ちていた日々だった。ありふれた幸せ。平和な毎日。もう二度と取り戻せないであろう時間。
―――もしもあのとき、臨也さんと会っていなかったら……?
そんな後悔が波となって押し寄せてきては溺れてしまいそうになる。
―――これは、少女・が臨也に出会うまでの経緯である。
どこにでもいる普通の女子高生。目立つ特徴もない"一般人"という単語がよく似合う人間、それがだった。特に悩みも存在せず、青春を友人らと謳歌する17才。
高校入学を機に家族と離れて東京で一人暮らしを始め、右も左も分からないで戸惑っていたところを偶然同じクラスになった女子生徒に助けられる。―――その町案内をきっかけに意気投合し、交流をはさむうちに二人は親友と呼べる親しい仲に発展した。2年進級しても奇跡的にまた同じクラスになり、顔を合わせる機会も増えて、さらに友情は揺るがないものになる。
―――なった、はずだった。
ある日、意見の食い違いが原因で衝突し、酷い喧嘩をしてしまった。数日口をきかない期間が続き、謝るにも踏ん切りがつかずタイミングを逃すばかりでなかなか話しかけられないでいた。育んだ絆は嫌悪なものにかわっていく。一番の親友と対立関係に陥ってしまったは、誰にも悩みを相談できないまま、ついには学校に行くのさえも嫌になって、度々適当な理由をつけては学校を欠席した。
登校した日には、普段面識のない女子さえも「大丈夫?」「事情は知らないけど、元気だして」と優しく気遣いの言葉をくれるほどに、の纏う暗いオーラは目に見えて不穏なものだったのが分かる。そして―――落ち込んでいるのことが同様に気にかかってしょうがなかったのか、教室では大人しくて引っ込み思案で有名な少女までもが、
「あの……さん」
少女が―――
「なにか悩みごとがあるなら、私……話を聴いてくれる人、知ってます。その人すごく聴き上手で的確なアドバイスをくれて、どんなことでも簡単に解決できちゃって……私も何度が助けられてて、それで…………とっても頼りになる人だから」
の運命を揺れ動かす言葉を―――
「私、今日会う予定あるんだ。だから、さんも一緒に来ない?」
―――放った。
♂♀
放課後、一応会ってみようということになりクラスメイトの少女の後を付いていくと、待ち合わせの場所には携帯を片手に壁にもたれかかる黒服の男の姿があった。青年はと少女に気づくと、携帯をジャケットのポケットにしまい、合図するように手を振る。駆け出した少女にもつづく。
遠目で眺めるよりずっと端整な顔立ちにシンプルすぎるファッション。二つの意味で目を引く容姿をした青年に挨拶をすると、近くのカフェに入り本日の対面事情を少女が男に説明した。
初めて会う人なんかに、心のうちを吐き出すことなんてできるわけがない。
と、は硬く唇をつぐんでいたのだが、「話してごらん。他人に打ち明けることで楽になることもあるんだよ。俺もできる限りで力を貸すから、ね?」男―――臨也の優しい声色に釣られて抱えていた悩みを、本心を、ありのままに残らず零した。
傍聴人である臨也は、穏やかに同意の返事をかえしつつの話が終了すると、いくつかのアドバイスを提示した。も臨也の案に半信半疑で耳を傾け、以後ももらったアドバイスを実行するかしないかで迷っていたが、一歩を踏み出さなければ何も始まらないんだ、と自分を説得して親友と仲直りの場を設けた。会話を切られてもめげずに粘って誘い出す。―――――結果。臨也の指示通りに事を進めた、結果。仲直りに成功する。以前の日常を取り戻したのだ。
この一件が元では臨也を積極的に頼るようになる。
困ったことがあればなんでも臨也にアドバイスを求めるようになり、彼の巧みな言葉使いに翻弄され、最終的には「臨也さんこそ正しい。あの人こそ素晴らしい人間だ」と言い出すまでに。臨也自身昔からたくさんの女の子の取り巻きに囲まれており、言うまでもなくお得意の洗脳で傍につけた子たちばかりだ。時には手駒として自分の計画を難なく次の段階に移すための道具に使う。あののクラスメイトの少女も、臨也を崇拝する一人である。
崇め、敬い、尽くし―――それを間違いないものと信じ、彼女たちは臨也が全てだと語る。
そんなたくさんいる取り巻きの中でも臨也が特に気に入ったのがで、他とは一段上の扱いで、常に近くにおいていた。にとってもそれはとても喜ばしいことで―――臨也に必要とされるのが、何よりも嬉しかった。
嬉しかった。
幸せだった。
幸せだった。
幸せだった?
幸せ、だった?
し、あ、わ、せ、だ、っ、た、?
近くにいたからこそ。臨也をずっと見てきたからこそ。
知った。見えた。臨也の本性が。
愉しそうに目を細めて、人を弄ぶ姿が。
不吉な笑みと共に、ターゲットを闇の淵へと追い込む姿が。
他人の不幸を蜜の味とし、冷笑する姿が。
―――離れようと、逃げようとした時には、既に遅く。
「なにをそんなに怖がってるんだい?」
「……まさか、逃げようなんて考えてないよね?」
「無駄だよ」
「今日から、俺のものね」
吊り上げられた口元と、愉快だと笑う瞳の色が黒だとするならば、透き通る硝子のような声は白だろうか。
なんとも不釣合いで―――だからこそ、不気味さが際立っている。
じわり、と胸に沁み込むその囁きは、もしかしたら悪魔そのものが降らしたのではないかと思った。
そして、現在に至る。
酷い行為を行われた証拠の痕跡が身体にしっかりと刻まれている。
これはが囚われの身となってから知ったのだが、臨也は出会ったあまり経っていない頃からを恋い慕っていたらしい。その愛の情が強い独占欲に繋がり、異常なまでの行為に発展してしまった、ということらしかった。
波江に助けを求めても状況は変わらなかった。
彼女は弟以外の人間には興味がない。よって、誠二じゃない誰かがどうなっていようと波江には全く関係のないことだ。気まぐれでも逃がしたりなんかしたら、臨也を敵にまわしてしまう。
彼女は面倒事から、自ら関わりを断ち切った。
希望は、失われた。
♂♀
「……はあ……はあ……」
長く風呂に浸かっていないはずが、息が乱れて胸が苦しみを訴える。
湯から出て洗面所に行き着くと、激しい呼吸をゆっくりと整え、熱を冷ます。
「……」
この症状が恐怖心によって生まれるのを、は熟知している。
これからやってくる現実を想像すると、いつも決まって発症してしまうのだ。
「………………」
しばらくぼうっとつっ立っていたが、タオルで身体の水分を拭き取って服を着ると、重い足を動かして洗面所を後にした。